心のバール

 自分のオルゾコーヒーをマグカップに入れて居間に行くと、ソファに寝転んだリナルドが僕が昔書いた歴史小説を読んでいた。青い狐の耳を軽く横に向け、手頃な大きさのクッションを抱いてリラックスしているのが容易に見て取れるその姿に、彼がここを訪れた時から抱いている疑問は一層膨らむ。
「この本を書いてる時の作者の気持ちは?」
 疑問を口にする前にリナルドから先制される。高校へ行く代わりに魔法使いへの弟子入り制度を使い、相応の資格を得たいという理由で暫く寝食を共にしていた時期から本棚の本は自由に読ませている。今彼が読んでいるのはリナルドが生まれる前に書いた作品だ。タイトルをちらと見て様々なことに追い込まれていた日々を思い出す。
「締め切りって何であるんだろう?て思いながら書いてたね」
「ふんっ」上機嫌に鼻を鳴らして次のページをめくる。
 とにかく、そんな感じで彼を数年ここに住まわせていたので今更こうして彼が寛いでいても問題はない。ただ一つ感じたのは……。
「リナルドから家に来るって珍しいね」
 恐らく、初めてではないだろうか。いつもはリナルドを家に呼んでいた側だったのが、今回は彼側から家に寄りたいと話を切り出してきたのだ。理由はただ「のんびりしたいから」。これも何かしらの理由が無ければ寄らないリナルドにしては珍しい。いったいどういう風の吹き回しか。僕としては原稿に追われていようがいつでも大歓迎なのだが。
「あー……家以外で適当に寛ぎたかったんで」
「バールとかは?」バールは他の国の言葉でいう喫茶店に値する場所だ。リナルドもよく足を運んでいると話していたはずだ。
「バール……」
 仰向けになって読んでいた本をクッションの上に置き、今まで落ち着いていたリナルドの表情が険しくなる。何か地雷でも踏んだだろうか、つい尻尾がピンと伸びていると彼は腕を頭の下で組み始めた。
「全滅しました。俺の行ってたところは全て」
「全滅?」思わず反芻する。
「俺の行くところは全部数ヶ月で潰れるんです。この前も折角隠れ家を見つけたと思ったら閉店して。俺は疫病神らしいですね」
「そんな、リナルドは疫病神じゃないよ」
 眉間に皺を寄せてすっかりいじけてるリナルドを宥めるのは容易ではない。空になったコーヒーを淹れ直しに行くか、頭を撫でてやるかの選択肢が頭にパッと思い浮かび、いやいやと首を振る。これには理由がありそうだ。
「これまで行ったバールってどんな場所にあった?」
「一軒目は俺の家からそう遠くない通りで、後は入り組んだ路地にあったり、閑散とした通りにあったりしましたね。この前まで行ってた場所は本当に穴場な場所にあったのに……!」
「店に入った時に客はいた?」
「いる時もありましたが、大体俺一人だったので快適に過ごせたんです。静かで誰もいなくて、コーヒーもあって天国みたいなところでしたよ。どの店も」
「それだよ」やはり思った通りだった。「客足が悪いから潰れたんだ、リナルドの所為じゃない」
 リナルドは喧騒を何よりも嫌う。だからこそ静かな場所を見つける探知能力に長ける部分があるのだが、それが悲劇になろうとは。
「客が来なければ、いくら居心地が良くてコーヒーが美味しくても儲からないよ」
「そこは何とかならないんですかね」
「店も慈善事業じゃないからねえ」
 はあっとリナルドが大きくため息をつく。人生とはそんなものだ。全てが上手くいくとは限らない。リナルドに対しては幸せになってほしい気持ちはあるが、どうしようもない事に関しては運命に身を任せて次に切り替えるのが一番良い。不貞腐れた表情のリナルドの頭を優しく撫で、ソファの近くのテーブルに置かれた空のマグカップを掴む。それからコーヒーを淹れ直して再び居間へ向かうと再び彼は読みかけの本を読んでいた。ただし狐の耳はピンと警戒しており、話しかけるなと言いたげな雰囲気が嫌でも伝わってくる。そっとしておくか、そう心の中で呟きながら彼の側にコーヒーの入ったマグカップを置くと、僕は向かい側のソファに座ってテーブルに置いたガイドブックを手に取る。
 普段まっさらな知識で旅先を楽しみたくて、旅行記やガイドブックを読まない僕が何故国内北部の地名がでかでかと表紙に書かれたそれを読んでいるのか。この地域には何度も足を運びすぎて真新しいものは無いかを探したかったからに過ぎない。足の向くままふらふら歩いても良いが、把握しすぎると逆に行動範囲を絞ってしまう。同じ場所でも以前行ったことがあるからいいや、とスルーしてしまう事だって無いとは限らないので、数週間後の旅行に備えて購入していたのである。
「『バール特集』ね……」
 手が止まったのは様々なバールや料理の写真が一面を彩るページだった。確かに旅先のバールで飲むコーヒーは美味しい、だがそれよりもある店の名前が目に留まったのだ。僕達のいる街から移転した隠れ家的バール、と小さく説明文が書かれている店に、もしかしてと直感が働く。
「リナルド、今良いかい?」
「何ですかルドヴィコさん」耳だけが面倒くさそうにぴょこんと反応する。
「君が行ってたバールの一つって『眠るレントラー』て名前じゃなかった?」
「……この前まで行ってた店ですね」
 彼の反応は思ったよりも悪く、相変わらず本に視線を移したまま水色の尻尾だけが重たげに揺れる。ガイドブックのページを広げたまま彼の元へ向かい、そのページを見せる。
「リナルド、君は店を潰した訳じゃない。良い店は良い店なんだよ」
「はあ」
「だから疫病神とか言うな、寧ろ店を見る目があると誇っても良い」
 リナルドが顔を上げる。その表情は口をへの字にした仏頂面のままだが、どこか納得したような目つきを見せている。リナルドであれ誰であれ、悲観的過ぎる姿は見たくない。負の感情が自他に与える影響の大きさを知っているからこそ、彼と目が合うとニッと笑ってみせる。
「何ならリナルドが良く行く店も知りたいな。君が行くなら間違いはないだろうし」
「……なら、この店ですけど」
 リナルドがおもむろにガイドブックの眠るレントラーとは別な店の写真を指差す。
「これも昔行ってた店でしたね。半年で潰れましたが」
「移転した」
「移転したなんて情報を追ってないと分かりませんよ」
 ましてや活動圏内から離れてしまえば、余程その店に思い入れがない限り潰れたも同然だ、と言いたげな表情がリナルドの鋭くなった目に書いてある。それもそうだと思いつつガイドブックを閉じた。
「とにかく、移転したのが分かってもこの街にないと意味無いですからね」
 そう言って寝返りを打った彼は僕と違い、限りなくインドア派でこの街から出る事を嫌う男だ。せめて彼が再び居心地の良い場所を見つけられれば良いと思いつつ、向かい側のソファに座り直す。
「それでもまた、行きつけのバールは探すつもりだろう」
「……多分。でも当分は疲れたのでここに通わせてください」
 そう吐き捨てて丸まり始めるリナルドに、仕方ないとオルゾコーヒーを飲みつつ弾む気持ちが心の片隅にあった。落ち着ける場所の少ないリナルドが、僕の家でまるで家にいるかのように寛いでいる事が何よりも嬉しかったのだ。警戒心が強く、他人に弱みを見せまいとする彼が素を曝け出せる居場所になっている。少しでも彼の役に立てている事実をこうして可視化されると、長年関わり成長を見てきた者としては感慨深さもあった。出会った当初はあんなにギラギラした目で冷気を帯びながらこちらを睨みつけていたのに。
「変わったなあ」
 自分でも思いがけず言葉が口に出ていた。こんな姿共に暮らしていた時は何度も見ているのに、改めてこみ上げるものがある。
「気が済むまで、いや、ずっとここに来てもいいよ」
 返事はない。耳も尻尾もピクリとも反応は無かった。おやと思って耳をすませると微かに寝息が聞こえる。だから後はふっと微笑んでこれは独り言、戯言だと自分に言い聞かせてオルゾコーヒーを飲み干すだけだった。



(2023年頃)
リナルドは心を許せる相手の前でしか無防備な姿を見せないので、眠るシーンは彼の珍しい一面だったりします。