ルドヴィコが執筆中の小説のネタに行き詰まり、何の考えもなく晴天の空の下ふらふらと散歩していた時である。突如として住宅街を歩いていた彼の前髪をかすめるようにガラス細工が空から降ってきたのだった。うわっと思わず声を上げて咄嗟に数歩後ろに下がり、事なきを得たのは運が良かったかもしれない。これまでもアパートの上階から鉢植えや洗濯物が落下しそれに巻き込まれたことが一度や二度ではなかったのだから。しかしそこまで考えたところで派手な音を立てて粉々に砕け散ったガラス細工だったものが目に移り、サッと血の気が引く。これは明らかに高価なものではないだろうか。一瞬の出来事だったがそれでも凝った細工が施されていたように見えた。もし相手が下から降りてきてお前が受け止めなけれればこんな事にはならなかった、と難癖を付けられたら面倒なことになる。そんなの自業自得でしかないだろう、と返したくなるがこの手の相手は厄介である事を長年の経験で知っている。
このまま逃げてしまおうか、ガラス細工が落ちてきたアパートの上階を見上げると視線の先には意外、いやこの場所であればいてもおかしくない相手がベランダに立っていた。
「す、すみません」
辛うじて地上にいるこちらの耳に入ってくるくらいの声が三階から降ってきた。声の主が見知った相手だ、と認識した直後ベランダにいた影が瞬時に引っ込み、数分もしないうちにドタドタとアパートの階段を駆け下りる音と共にリナルドの姿が目の前に現れた。そうか、ここは彼のアパートだったかと思い出しながらルドヴィコは息も絶え絶えなリナルドを迎える。
「ちょっと魔法の練習をしてて……」
「魔法?」レンガが敷き詰められた地面に目線を落とすと、散らばったはずのガラス細工の破片は蒸発したように消え失せていた。
「氷細工です、なるべく早めに完成させたくて」
「へえ」
ルドヴィコの勘がこれは面白いことだぞ、と告げるのを感じる。彼の家に少しお邪魔しようか、と考えるまでもなく成り行きでルドヴィコはリナルドの家に招かれた。
リナルドの家では彼が世話をしている少女マヒナがユキハミとメテノの氷細工で遊んでいた。ウォーミングアップであれを作った、とリナルドが彼女の前を通り過ぎながら説明し、後に続くルドヴィコがちらと彼女の持つ氷細工を見やると二つとも今にも動き出しそうな造形をしており、つい感嘆の声が口から漏れる。
「見事じゃないかリナルド、それで何を作ってたんだい」
「花束を」再びベランダに出たリナルドが指揮棒程の長さの氷の杖を振ると、杖の先から徐々に氷の花が生成される。空気中のエーテルを氷に変換させつつ、自身のキュウコンとしての力も織り交ぜて練り上げられる氷の花束は過程を見ているだけでも楽しく、美しい。
「だめだ、失敗だ」
と、リナルドが険しい顔で途中まで作り上げられていた氷の花束をふっと消した。氷が一瞬でエーテルに戻っていく姿にルドヴィコは目を丸くする。
「勿体無い事をするな」折角上出来のクオリティだったのに。
「花の造形が甘い、もう少し図鑑を見るか」
リナルドがベランダから部屋に戻る前にルドヴィコは近くのテーブルに置かれていた植物図鑑を渡す。ルドヴィコが見る限り、先程の花束は一流パティシエの飴細工のような繊細さと甘美さを併せ持つ、惚れ惚れする出来だった。自分ならあの地点で完成としているが、リナルドは更に高みを目指すようだ。
「そういえば誰にこれを渡すつもりだったんだ?」
「父さん。そろそろ誕生日だから……ゼッポレ以外にも何か渡した方が良いだろうと思って」
「ゼッポレ?父の日のお菓子を?」
もっと詳しく語ると、ゼッポレというケーキは数ヶ月前にあった父の日で父親に渡す定番として知られている。彼の父さんこと育ての父親は別にゼッポレを好んで食べているような相手ではないはず。
「父の日も兼ねてるんです。繁忙期で完全に忘れていたお詫びとして」
「律儀だねえ」
リナルドにとって養父グェルフォは愛すべき存在の一人であった。普段記念日に無頓着なところを養父の誕生日(最近はマヒナの誕生日も)になればささやかながら祝うくらいに。気性に難のある赤の他人をここまで育ててくれた恩を返すべく、魔法にも一層力が入っているのである。
熱心に図鑑を読みながら氷の杖で一輪の花を生成してみせるリナルド。その花もどこまでもきめ細やかで、花弁の一つ一つが丁寧に練り上げられている。遠目からでも素晴らしい作りにため息が出そうだが、リナルドはルドヴィコとは違うため息をつきながら再び氷の花を蒸発させた。
「違うな」
「さっきのも良かったのに」
「葉脈が気に入らない」
「やれやれ……僕ならさっきの地点で終わらせてたんだけどな」
「ルドヴィコさんが良くても俺は許せないので。俺には魔法しかないから、完璧に作り上げるしかないんですよ」
「そっか」
リナルドを知っているからこそ、ルドヴィコはこれ以上言わなかった。彼は物事をゼロと十でしか見ないきらいがある、だから八や九の出来が許せないのだろう。八や九、物によっては四でも五でもでも問題ないルドヴィコとは対照的だが、それがリナルドという青年である。呑気で寛容なルドヴィコからすれば十以外切り捨てたがるリナルドにはしばしば勿体無さを感じるが、彼なりの美学に突っ込みを入れ続けるのが野暮であるのも事実。リナルドのペースで気が済むまで練習させるのが一番だ、と結論づけてルドヴィコが伸びをすると、テーブルの上にミルクコーヒーが二つ置かれた。
「マヒナちゃんかな、ありがとう」
振り向けばマヒナが小さな腕に盆を抱えており、はにかみながらルドヴィコを見上げていた。優しい子だ、と彼女のふわふわの白い髪を撫でながらリナルドに手で休憩を促す。
「おにいちゃん、朝おきてからずっとれんしゅうしてたから」
「……だそうだ、リナルド、そろそろ休憩が必要なんじゃないか」
「ああ、マヒナが言うんだからな」
リナルドはこの少女にはだいぶ甘い。急いで部屋に引き上げてマヒナを労うリナルドを眺めながら、ふとルドヴィコは昔の記憶を呼び起こしていた。
リナルドは苦難に満ちた幼少期から紆余曲折の末、アマルルガの魔術師グェルフォに育てられることになった過去を持つ。そのグェルフォはかつてルドヴィコが務めていた王宮魔術師の後輩で、その縁でしばしばルドヴィコはグェルフォの家へ足を運んではリナルドと遊んでいた時期があったのである。
そんなある日、ルドヴィコはなぜグェルフォがこの少年を育てる気になったかが気になり、彼に直接聞いてみたことがあった。
『言い方はあれだけど家族からも周りからも見放されて、心の傷ついた少年をよく引き取ろうと思ったね』
『いや、私も最初は軽い気持ちだったというか、彼の中に眠る途方もない魔法の力へのポテンシャルの高さに目が眩んで引き受けたというか』
『それをリナルドに聞かせたらショックを受けるだろうね』
『やめてくださいよ、でも確かに最初はそうだったけど今は違う。私は彼を……守ってやろうと思ったんです』
そう断言するグェルフォの目が慈愛と決意に満ちていたのをルドヴィコは今も覚えている。
『あの子の持つ世界が好きになったんです。彼は繊細で変わっているからこそ、見る世界も我々と違う。でもだからこそ彼の心は壊れやすくて……私が守らなければ誰が守るんだって思ったら彼が愛おしくなって』
そんなところですね、と微笑むグェルフォの姿を回想し、ルドヴィコはマヒナを抱き上げるリナルドに目を細める。リナルドは自らを歪だと称する。確かに周りから見れば変わった奴だが、不器用で繊細で少し両極端な彼の世界は独特だ。だからこそ自分だけでは発見できなかった事もあるし、今練習している魔法だってリナルドならではの独自性が垣間見える。本人は図鑑の写真そっくりそのまま実体化させていると謙遜しそうだが、胸を張って堂々としてほしい……そこでフッと息をつく。なるほど、どうやら僕もリナルドに魅入られた一人のようだ。ルドヴィコだって最初は苦難に満ちた過去を送った同族同士の親近感で近づいたのに、今ではすっかり彼が忘れられなくなったのだから。
「マヒナのお陰で頑張れそうだ、おにいちゃん今度こそ氷の花束を完成させるからな」
「そしたらマヒナもほしい!ねえいいでしょ?」
「もちろん、マヒナにもプレゼントしてやるさ、何の花が好きだ?」
プルメリア!と元気よく好きな花の名前を答えるマヒナに、目を白黒させながらぷるめりあ……?と急いで植物図鑑をめくるリナルドの微笑ましいやり取りを見ていると、自分も助けたくなってくるから不思議である。
「リナルド、さっき見てて思ったけど力みすぎが原因だと思うんだ」
「俺は普通にやってるだけですが……」
「じゃあ無意識だよ、魔法使う前に深呼吸してリラックスしてからやってみよう。それと、誰かの贈り物なら贈られた時の相手の表情を思い浮かべると良い。グェルフォならどんな顔をするんだろうってね」
「贈られた時……」
きっとリナルドから渡されたら泣いて喜ぶだろう。グェルフォのリナルドの溺愛ぶりは何度も見てきたのだから。神妙な顔つきでグェルフォの顔を思い浮かべようとするリナルドの腕を軽く小突いてミルクコーヒーを飲み干す。そう言えば小説のネタに行き詰まっていたのが今回ここへ来た発端だが、多少時間を潰しても問題ないだろう、とルドヴィコの持ち前の呑気さが囁く。リナルドの練習に付き合っているうちに良いアイディアが閃くはず。
「よしリナルド、少し休憩したら再開だ。魔法を見てあげよう」
「何故あなたが仕切ってるんですか……まあ良いんだが」
リナルドが嫌いじゃなかったら彼の十代の頃の数年を弟子として取っていない。これからも彼の世界をもっと見て共有したい、そんな事を心の中で呟き、大きく欠伸をするルドヴィコの事情など知る由もなく、そんな彼を一瞥してリナルドはため息をついた。
(2023年頃)
生き辛い生き方をする彼/彼女の見せる世界が好きで憧れだからこそ守ろうとする相手がいる、私の好きなネタです。