ある日の店内にて

 朝の目が回る程慌ただしい時間を過ぎ、数時間後には昼食でまた店がごった返すであろう、そんな時間にその客は来た。
 店に入るや否や「いつもの」の四文字と共にカウンターの上に小銭を置き、奥のテーブル席に歩いていく青年。薄紫色の尻尾を揺らすその様子はいつもと変わりないように見える。
「こんな時間に珍しいですね」
 小銭を数え、場所代といつものメニュー代でピッタリ精算できる事を確かめている間にマスターも同じ事を考えていたらしく、奥の席に向かって同じ質問を客に投げかけていた。仕事が立て込んで寝坊した、と答えが返ってくる間にもう一人の店員が彼に出すオルゾコーヒーとパイルジャム入りのブリオッシュを手際よく用意しており、私が客が本を取り出し読み始めるところをぼんやり眺めている間に「これ持ってって!」とカウンターにそれらがドンと置かれた。
「はっはい、ただいま!」
 アルバイトとしてこのバール、アリオストで働き始めて一ヶ月、まだ慣れない部分はあるが常連客の顔は覚えられるようになった。名前は知らないが、あの客は特に覚えやすい部類だ。客の顔なんて一々見ていられないくらい忙しい朝でも、たまに足を運ぶ雑貨屋の店主と彼くらいしか見たことがない珍しい種族とあの一本だけ短い、薄紫の九本の尻尾を見ればオルゾコーヒーばかり頼む相手だと分かる。確かマスターは名前は知っているようだが、職業は全くの謎と言っていたっけ。
香り高い麦のコーヒーの匂いに目を細めつつ、トレーを抱えてその客の元へ向かうと、彼は本に夢中になっていた。ちらっと表紙が見えたが、あれはもしかして『戻り難き山』ではないだろうか。最近ベストセラー本として国内で知らない者はなく、本を読まない人ですら作者の名前アドリアーノとあらすじくらいは知っていると評判の、あの作品。思わず読書家の心に火がつく。
「お待たせしました、オルゾコーヒーとブリオッシュです」
「あっ、ありがとう」
 だからテーブルにトレー毎置いた時につい私は言葉を発していた。
「何の本を読んでいらっしゃるんですか?」
「君も知ってると思うよ」表紙を見せてもらうと、やはり予想通りの本だった。「昔山で暮らしてたから、この主人公はよくもまた山にもう一度行く気になれたなって」
「山で暮らしてたんですか?」
「ずっと昔の話さ、でもやっぱり街の方が肌に合うなって逃げ帰った訳だけど」
「山の呼び声はあなたには通用しないと」
 山の呼び声は作中で度々出てくる表現だ。互いに微笑した後、もう少しこの客のことが知りたくなって言葉を続ける。
「よく本を読んでますよね」
 彼は一日のうち朝と午後の二回訪れることが多いのだが、午後の時はしばしばテーブル席で本を読んでいる。その記憶が蘇ったのだ。
「昔からこんな感じさ、趣味というかもはや日常生活の一部だね」
「分かります! 本を読んでると生活が満たされる感じで……!」
 うんうんと頷く客に目を輝かせていると、カウンターからマスターの咳払いが聞こえてハッとする。それに対して客が構わない、と片手でジェスチャーしなければ私は小言を言われていただろう。多分今回は多少見逃してくれる。
 客も片手で数えられる程しかいないのもあり、私は暫く客との会話の時間を設けることができた。最近はどんな本を読んだか、お気に入りの作品は何か……会話はとどまるところを知らず、お気に入りの作家の話題になった時には普段の口下手はどこへやら、私は早口で推しの作家を語っていた。
「シルヴァーノ先生が最近のお気に入りで! 堅いテーマでも読みやすくて親しみやすい文体だったり、登場人物の心情の書き方が胸を打つくらい素晴らしくて感動して……!」
 刹那、客がゲホゲホとむせ始めた。飲んでいたオルゾコーヒーを吹き出す勢いだったので驚き、心配したが大丈夫、と手をヒラヒラされてしまっては手を出せなくなる。
「い、いや良いと思うよ、僕もそう、知ってる作家だし」
「ですよね! 嬉しいなあ……それでどの作品が好きですか?」
「あー……『赤い狼』なんかは自信作だと思ってるな」
 赤い狼! 今をときめく作家シルヴァーノ先生が数年前に出した作品で、過去の古典を基にした歴史小説なのだが、ファンの間でも賛否分かれる内容のそれをお気に入りに挙げるなんて! 私も賛の側なのでつい小躍りしたくなった。
「最高じゃないですか! あれは先生の作品の中でも一、二を争うくらい完成度の高い作品だと思いますよ!」
「へへっ……あれはまあ、その、作者も書き上げるのに結構苦労したって言ってたし、本人に言ったら喜ばれるんじゃない」
 はにかみながら髪をかき上げる客。そう言われたら来週のサイン会で勇気を出すしかない。巻末に載っていた眼鏡をかけた銀色のキュウコンの写真を思い返す。写真からでも穏やかな雰囲気が滲み出ており、緊張こそしているが今から会うのが楽しみなのである。ましてやこれまでファンの間に姿を見せなかった相手だ、その所為で一部では実はゾロアークかメタモンが変身しているのではとまことしやかに囁かれたりもしていたが、そうには見えないのが私の意見である。
「それからですね、最近は近代の小説にもはまってまして」
「へえ、どんな作品を読んでいるんだい」
「サクラーティの作品です! あっ、ロドルフォ・サクラーティっていう名前の作家が昔いまして」
 顔を綻ばせて美味しそうにブリオッシュを頬張っていた客が再びむせる。流石に大丈夫じゃないだろうと背中をさすろうとしたが結構と強めに断られてしまい、おろおろしている間に客は何とかオルゾコーヒーで口直ししたようだった。
「いや、何度もごめん。中々マニアックなところを突いてきたなって」
 確かに世間一般の認識ではマニアックな近代作家かもしれないが、近代特有の古い言い回し以外はシルヴァーノ先生に通ずる親しみやすい文体を持ち、どの作品も私を夢中にさせてくれるのだ。そんな作家まで知っているなんて、この客は相当の読書家だ。そして面白い。
「仲間との読書会でも誰それって言われることが多いので、知ってるなんて嬉しいです!」
「まあ、本が売れなくて兼業してたって人だからね」
「当時売れなくても、絶対再評価されて然るべき作家ですよ! ほら絵画の世界でも後世有名になったとかあるじゃないですか」
「今の時代でもマニアックだと言われているのが、正しい評価なんじゃないかな」
 そう言って客はカップを揺らしながらため息をつく。なんとなく、その様子が許せない自分がいた。
「そんな、目の前に当人がいたら自信を持って書き続けてって言いますよ! きっと彼が今も生きてたら今頃売れっ子になってたと思います」
「ふふっ、今も生きてたら、か……」
 揺らしていた手を止め、じっとオルゾコーヒーの黒い水面を覗く客は、コーヒーではなくどこか遠くを見つめているような眼差しだった。そう、数百年生きていればきっとどこかで評価されているに違いない。神様はなぜ類稀なる才能を発掘してくれなかったのだろう、と運命を恨みたくなる。私はサクラーティではないが、作品を世に出しても全く、誰からも相手にされない状況なんて辛く苦しく、許しがたい。それに、例え作品を生み出す理由が自己満足でも、誰かの心に届いたという証が欲しくなるのはエゴでも何でもない。だからこそ……そんな風に私も憤りを隠せなかったため、肩を強く叩かれたことには暫く気付かず、客が後ろに視線を向けるよう誘導していなければこの怒りを彼にぶつけていただろう。
「いつまで油売ってるのさ、客も増えたんだし仕事に戻りなさい」
 店員に睨まれて縮こまりながらも、先ほどまでの会話が忘れられない。後ろ髪を引かれる思いで客から離れ、それっきり彼とは会話することなく一日が過ぎた。
「あんた、えらくあの客と話してたな」
 帰り際、カバンを背負った時にマスターに話しかけられる。今日のあれで賃金を減らされる話なら甘んじて受け入れるしかない。
「あの客は特にお得意様だから、今後くれぐれも粗相のないよう」
「は、はいっ……」
 どうやら減額は無いようだ、胸をなで下ろして店を出ようと出入口の扉を開けようとすると、再びマスターの声が背後から聞こえた。
「ま、相手が楽しんでたみたいだから今回は許すが」
「ありがとうございます……!」
 このバイトは大学が忙しくなるまでの数ヶ月しかいないと決めている。大変なこともあるが、今日のような経験もあるんだから続けられる。次彼に会った時は仕事に支障のない程度にまた本について話そう、来週だったらサイン会の話もありではないだろうか。きっとシルヴァーノ先生に会ったと言ったら、彼は目を丸くして驚き羨ましがるに違いない。
 今がマスターにも店員にも見えない位置で良かった、にやけ顔を戻せないまま私は扉を開け、外に飛び出した。



(2023年頃)
一度書いてみたかったモブ視点の話。
 ルドヴィコの正体は誰も知らない、と言うのは言い過ぎですが、エルミニアやリナルドといった本当に親しい相手しか知りません。長命なので怪しまれないよう、本当の名前や姿を隠して活動する習慣がついてしまっているのです。