星を見上げて

 これだけ街から離れると空気の味も違うように感じる。郊外にどんとそびえ立つ古代の水道橋の遺跡に登り、頂上で風を浴びる。吹き飛ばされて落ちないように細心の注意を払い、同行者こと魔法の弟子であるマヒナちゃんの手をしっかり掴む。
「座った方が良いかもしれないわ」
 風に加えて夜の闇の深さもあってあまり下手な行動はできない。人気のない水道橋の遺跡に登る事自体がそれに該当する、と言われればそれまでだが、この長い人生の中で数回やってる事なので多少は見逃されると信じたい。毛布をレンガの上に敷き、そこにマヒナちゃんと座るとカバンを下ろす。
「望遠鏡は?」
「あるわよ、でもその前に望遠鏡無しで眺めてみない?」
 星空が大好きなマヒナちゃんに天体観測をせがまれること数日、ようやく時間が取れて一緒にここまで来た訳だが、私も久しぶりに星空を眺めたい気分だった。街中に住むことで田舎や山奥に住んでた時期に毎夜眺めていた夜空が懐かしくなったのかもしれない。今更郊外に住む気にはなれないが、やはりあの時見上げた星空の広がり方が今も脳裏に焼き付いて離れないのだ。
「望遠鏡無しで見ると星空を見渡せるでしょう」
「うんっ! とてもきれい!」
 どこまでも、地平線の果てまで広がっている星空は郊外だからこそ見られる景色だ。景観を邪魔するものは無く、果てしなく続く無数の星々には息を飲む程圧倒される。これこそ昔見上げていた空だ。特に山奥に住んでいた時期は魔女というだけで追われる時代で毎日が大変だったが、そんな自分を癒してくれたのは闇を彩るように瞬く星空だった。マヒナちゃんも目を星空に負けないくらいに輝かせて上を見上げている。
「ししょー、手をのばしたらお星様にとどくかな?」
「ここからだと危険だからまた別な場所でね」
「別な場所ってどこ?」
「もっと安全なところ。また今度連れて行くわ」
 今いる場所は高度数十メートル、人一人が通れるくらいの幅のところだ、小さな子供に危険な真似をさせないようにしつつ、私もマヒナちゃんもこの星空を楽しんでいた。このままずっと眺めていても飽きないくらい星が広がっている。よく言われる「星空の雄大さに比べれば悩みなんてちっぽけなものだ」もあながち間違いではないのかもしれないと眺める度に思う。この数百年を振り返れば、様々な時代に色々な悩みを抱えていたものだ。その中でも周りとの寿命差の苦悩は生まれてから今に至るまでずっと続いているが、今だけはどうでもよく感じる内容だった。
 そよそよと吹く風が長い髪を揺らす。ふと毛布の上に置いてた手にふわっとした感触を感じ、隣を見ればマヒナちゃんの揺れる尻尾が手を撫でていた。これに本人は気付いていないらしく、ずっと首を上に向けてじっと星を眺めている。食い入るように、まるで催眠術にかかったかのように。
「ししょー」ぼそっと呟くように声がする。「パパはいなくなってもお星様になってマヒナをみてるよっていってたけど、本当かな」
「お父さん……」
 マヒナちゃんの顔は私の方を向かず、ずっと星空を見上げている。星灯りに照らされた表情はどこかぼんやりとしているように見えた。
「マヒナちゃんはどう思ってる?」
「わかんない……これだけお星様がいっぱいだと、パパがどこにいるか見つからないもん」
 彼女の父親が既にこの世にいないのは今の彼女の保護者であるリナルドから聞いた。マヒナちゃんの家族は父親しかおらず、彼が病に倒れた時に紆余曲折あり、たまたまアローラに居合わせていたリナルドが引き取った事も耳に入れている。マヒナちゃんはこの重い事実をどう受け止めているのか、ふと気になった。
「そうね。でもこの星のどこかにきっとマヒナちゃんのお父さんはいるはずよ」
「うん」
「私もお父さんを探してみるわ、どんな方だったの?」
「えっとね、お耳がおっきくて、尻尾がふわふわで、すっごくカッコいいの!」
 そう言えばマヒナちゃんは父親似だとリナルドが語っていた。写真を見た彼曰く、無邪気な目がそっくりらしい。なるほどそれではマヒナちゃんと目元が似た星を探せば良い。膨大な星々を見上げる。
「マヒナはいい子だねってぎゅーってだきしめてくれたり、絵本やおもちゃを買ってきてくれたりしたの」
「とっても良いお父さんだったのね」
「あとね、あのお星様はこういう星だよーって、おしえてくれたの。えっと、あれが北極星なんだよ」
 マヒナちゃんが指差した星は確かに北極星だ。こんな小さい子供がそんな事を知っていることに感心しつつ、もう一つ気になったのは彼女が珍しい話題を口にしている事だった。私が話題を切り出したからだが、普段マヒナちゃんと話す内容は魔法の特訓についてや料理の話、彼女の好きな事や最近あった話が殆どで、アローラにいた頃や家族の話はこれまであまりマヒナちゃんの口から出ることは無かった。そう、これまでの彼女の経緯はリナルドから聞いた話が大半を占めており、思えば彼女の立場から振り返ったためしがない。私は何て無知なのだろう。
「マヒナにお星様をおしえてくれたのもパパだったんだよ。山の上からお星様を眺める時間が大好きで……」
 彼女の声が震えていることに気付き、思わず視線をマヒナちゃんに向けると彼女は寂しそうに笑いながら視線を落としていた。ぺたんと座るその姿がいつもよりも小さく見えた気がした。
「マヒナ、パパに会いたい」
 彼女がしゃくりあげるより前にその体を強く抱きしめていた。これまで秘めていた思いが彼女から溢れるのを肌で感じる。私の胸に押し付けているその顔から表情を伺うことはできないが、震える体や慟哭がその全てを語っていた。この小さい体で身を割くほどの悲しみにずっと耐えてきたのだ。私ですら何十と経験して未だに割り切ることのできない苦しさ、辛さを。今の私にできることは彼女に寄り添い背中を優しくさする事だった。父親そのものになる事は誰もできないが、彼の代わりになる事ならできるから。
 彼女の悲哀に満ちた声は長い間星空の下に響き渡ったように感じた。時計を見れば体感よりも短いかもしれないが、この時間は少なくとも数時間はあるんじゃないかと錯覚している。それだけマヒナちゃんには思いを吐き出してほしかった。思いを出してしまえば後は時間が傷ついた心を癒してくれるから。
「喉が渇いたでしょう、ココア飲む?」
 やがて声が小さくなり、そっとマヒナちゃんが離れるのに合わせて彼女の額に口付けする。胸元がびしょ濡れになったのはどうでも良い、暗い中でも分かるくらい目を真っ赤に腫らしている彼女のためにカバンから水筒を出すのが先決だ。本来気温の下がる夜中に外にいる者は暖かい飲み物を欲しがるが、氷を操る私たちには冷たい飲み物が丁度良い。寧ろ今の状況には冷たい方が心を落ち着けられる。
 マヒナちゃんに注いだココアを渡すと、もう一つの水筒をカバンから取り出し、中に入っているコーヒーに口をつける。苦く、香り高い風味がすっと体の中に抜けていく感覚が今は少しだけ心地よい。
「星座って知っている? 星座……お星様になるには、良い事をたくさんする必要があるの」
 無言でココアを飲むマヒナちゃんが小さく頷くのを確認して、続ける。
「だからマヒナちゃんがパパに会うには、大人になるまでもっとずっと良い事をする必要があるわ。できる?」
「うん」
「マヒナちゃんはいい子だから、いつかお星様になってパパに会うことが出来るって、私は思っているわ」
 きっとマヒナちゃんならこの膨大な星々から自分の父親を探し出せると信じている。時間がかかってもいつか必ず……。空になったコップの蓋を抱えてはにかみながら再び星を見上げる白い少女の姿に、今後の人生が幸せでありますようにと願わざるを得なかった。
「……あっ、ししょー、望遠鏡ある?」
「そうだ、忘れてたわ」
 元気を取り戻した彼女の一言で我に返る。そう言えばそんな物を持ち歩いていたっけ、と子供用の望遠鏡を渡すとマヒナちゃんの関心はすっかり星空の方へ向いてしまい、晴れやかな表情でレンズを除く横顔に安堵か呆れかため息が漏れた。
 そう言えば私がこれまで別れてきた数々の命も星になっているのだろうか。マヒナちゃんにああは言ったものの、半信半疑で見上げた星空はただきらきら光るだけで何も教えてくれない。いっそ私が星になって会いに言った方が早く答えが見つかるかもしれないが、これまでどんな善行を積んできたかを思い出そうとしてもパッと浮かんでこない。恐らくこの答えは当面、下手すれば最後まで見つからないかもしれない予感がする。だがこれまで受け止めてきた悲しみが昇華されるのであれば、星々が見守り続けてくれる心強さは悪くないのかもしれない。
 煌めく空を見上げながら、私は不思議と心の中に優しい温もりを感じていた。



(2023年頃)
マヒナちゃん自身は気づいていませんが、彼女は長命種です。これから更に長い時を生きる彼女にはこれからも大切な相手との別れが待っています。
そんな運命にある子ですが、まだ子供なので目の前の事でいっぱいになっています。父親との思い出はそのうち大きくなって薄れていくけれど、失った悲しみだけは残り続けると思います。
エルミニアも同様に、後どれだけの相手と別れなければならないのか……。でも彼女はそれを乗り越えて生きられるので、これからも前を向いて進み続けられるはずです。