月が浮かぶ夜に

「月は好きかい?」隣からの声にマヒナはハッとし、声の主と同じ薄紫色をした長い髪をかき上げ、怪訝な顔でマゼンタの瞳を横に向ける。
「何、私はルドヴィコさんをそういう目では見てないけど」
「月が綺麗とは言ってないさ」
 ふふっとマヒナをあしらうように穏やかに笑い、手にしたタンブラーから飲み物を飲む彼は、マヒナが初めて出会った当初から何も変わっていない。一切の年月の流れを感じない顔つきは理解できるとして、無難なようでどこか違和感のある、言葉に迷う服のセンスも当時のままなのだ。一周回って昔の流行りが流行の最先端になる事もあるが、永遠に着続けている姿を見れば無頓着、面倒くさがりという言葉が真っ先に浮かんでしまう。私もいつか外見の成長が止まるだろうけど、服だけは流行を追いかけていこうと目の前の柵に身を預ける。
 街はずれの高台でマヒナとルドヴィコが出会ったのは久々だった。マヒナは休日の楽しみである天体観測で山に行こうとしていた最中の休憩地点で、ルドヴィコは曰く「作品のネタを出すための散歩」で偶然同じ深夜帯に同じ場所を訪れ、こうして並んで夜空を見上げている。日中は南の国らしく、どの季節にもまして陽気な太陽が輝きを迷惑なまでに降り注いでいるが、日が落ちてだいぶ経った今は心地よい風と闇が氷タイプにも優しい涼しさを作り出している。そんな快適で静かな空間の中、満天の星を眺められるなんて最高でしかない、マヒナは北極星を見つけてにっこりと微笑む。
「月って星の光をかき消すじゃないか、今日みたいに」
「ああ、そういう事」
 確かに今夜はまん丸で、黄金色にピカピカ光る一際目立つ存在が空に浮かんでいる。月の光に照らされて輝きが埋もれた星が今日だけでいくつもある事だって一目瞭然だ。それでもこんな状況下で星空を見上げるのは慣れている。物心がつく前から星空を幾度となく眺めていればそんな日は日常茶飯事だ。確かに新月の日が観測にはベストな日だが、それに合わせて一か月に数日しかない時期だけ星空を眺めるつもりは毛頭もない。常に星空を感じていたいのが本音なのだから。
「嫌いじゃないよ、私の名前がアローラの言葉で月って意味だし。まあ昔はルドヴィコさんが言った理由で嫌いだったけど」
「それじゃあ昔は自分の名前もあまり好きじゃなかったとか?」
 ルドヴィコの問いにマヒナは曖昧に首を傾げてみせる。故郷に住み、父親も生きていた時期の、今となってはごく僅かしか覚えていない記憶の一片で、父親に改名したいと駄々をこねた何気ない瞬間が頭から抜け落ちないのが今も謎でしかない。確かアローラの言葉を教えてもらっていた時だった気がする。
「父さんに「ホクって名前がよかった!」て滅茶苦茶を言った覚えがあって……ホクは星って意味ね」
「でも名付けたのには理由があったんじゃないのか?」
「そうね、確か……私の名前は母さんが付けたって聞いた。「いつでも母さんがいる事を忘れないように、月の女神と同じ名前だった母さんにちなんで月」だって」
「良い母親じゃないか、娘思いで」
「そうかな」
 娘を生んですぐに亡くなったと聞いた母親が、名前以外に何を残したというのだろう?母性愛と言われても、目に見える形で何かされた事はなく、マヒナにとって母親は血の繋がりのある赤の他人でしかない。寧ろ名前だって彼女のエゴと言えなくもないのだ。首を更に傾げてみても目の前の星々や月は何も教えてくれないのが歯痒かった。星になった父親を探せば何か教えてくれるだろうか。
「昔からマヒナちゃんの事を色々聞かせてもらっているけど、君はたくさんの愛情に包まれて生きてきたんだなって思うよ」ルドヴィコとマヒナの目が合った。マヒナの目に真剣な顔が映り、思わずマヒナも姿勢を正す。「リナルドやエルミニアさんだけじゃない、僕だってマヒナちゃんを大切に思っているし、ご両親だってずっとマヒナちゃんの幸せを願っていたんじゃないかな」
「……『ご両親も』って、父さんは分かるとして、どうしてそう断言できたか知りたいな」
「僕には無かったものだからね」
 あたかも「両親からの愛情がなかったから捻くれて育ったのだ」と言いたげな、苦虫を噛み潰した表情をされてはそれ以上の会話はできなかったが、ルドヴィコに言い切られると不思議と彼の言葉を信じてみようと言う気になれる。リナルドや師匠、ルドヴィコに数えきれないくらいの感謝を抱いているのは確かだし、ここまで繋いでくれた父親にも、星空の中から彼の星だと思ったものを見つける度にありがとうと両手を組んでいる。そうなれば母親がしてくれた事もいずれ分かる日が来ると願いたかった。赤の他人ではあるが、故に彼女を知りたい気持ちは僅かながら胸の奥底にある。ルドヴィコはそれに気付かせてくれた。
「そのうち母さんの事も分かるようになるのかな」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない。でも僕はなるといいなって願ってる」
 月は嫌いじゃない。星々の煌めきを容赦なく消しにかかる存在だが、自分の名前にもなっていて憎めない。それに星々をかき消そうが月の光に負けない星だってたくさんあり、全てが消える訳ではない。そんな星と月が彩る寒色がかった暗闇を眺めてマヒナは息をつく。
 今以上に月を好きになれる時だって、いつかは来るんじゃないかしら。



(2024.8)

月をテーマにした二次創作の小説を読んでいる最中に閃いた短めな話でした。
アルミダと呼ばれる時期の成長マヒナちゃんも少しずつ描写していきたい。多感な時期の少女らしい面はあれど、色々な相手から愛情たっぷりに可愛がられて育ったのでいい子になったのである。