急かされるままにリナルドが薄手の白いカーディガンを羽織り、ポケットサイズの星座図鑑を無造作にカバンに突っ込んで玄関に向かった時には、既にマヒナは全ての準備を済ませた、すなわち夏でも肌寒い夜に備えてリナルドとお揃いのカーディガンを羽織り、双眼鏡とコンパスと星座早見盤を詰め込んだカバンを肩にかけた姿でドアの前に立っていた。紫の瞳は星のように輝き、後ろ手にはドアノブを掴んでいる。
「おにいちゃん、おほしさま見にいこっ!」
「分かった分かった、ほら行くぞ」
白い耳と尻尾がちぎれる程ブンブン振るマヒナに微笑ましさを抱きながら、彼女の手を取りドアを開ける。かねてより予定していたマヒナとの天体観測の日に、朝から大はしゃぎだった彼女を宥める光景が脳裏を過ぎっては消えていく。
街灯に照らされた通りを歩きながらリナルドは心地よさを覚える。普段であればどこぞの家族の喧嘩や、若者達の騒ぎ声で耳を伏せたくなるような喧騒も、バカンス期間で誰もが出払った今は何一つ聞こえない。石畳を歩く二人の足音だけが響く中、マヒナは暗闇にも臆せずきょろきょろと辺りを見回しながら横を歩いている。
「何だ、店ならどこも空いてないぞ」
「ううん、誰もいないなって。みんなどこへいったの?」
「海か山だろ。マヒナも行きたいか?」
リナルドの問いかけにマヒナがこてんと首を傾げる。うーんと悩む仕草も相まって、思わずリナルドは破顔の衝動を抑える事にしばらく躍起になる。彼女は可愛らしい。これこそ南の国からやって来た天使だ。
「山にいきたい! おほしさまがよく見えるから!」
「だろうな。バカンスが過ぎてから考えてやる」
バカンスを過ぎてから、と答えたのは生来の出不精故の先延ばしもあるが、どこもかしこもバカンス客で溢れかえる場所が耐えられないからだ。人混みを激しく嫌うリナルドにとって、半ばゴーストタウン化した今の街は過ごしやすく、永遠に続いてほしいとさえ思ってしまう程の楽園だった。だからこそあえてバカンスの時期は街に残って静寂を享受しているのだが、マヒナと暮らすようになってからは彼女の思い出作りにも目を向けなければならなくなり、その結果が期間中に設けた週数回の天体観測だった。
マヒナは天体、とりわけ星が大好きという事は引き取った直後から知っていたが、同じ時間を過ごすうちにその熱心さは尋常じゃないと気付き始め、アローラの言葉で月を意味する自分の名前を「月の光が星を隠すから」と別段好きではないと告白した頃にはそうかと半ば呆れ果てて相槌を打つ段階になっていた。そんな彼女だから、旅行へ行かなくても天体観測だけで満足できると考えてのことだったが、思いの外喜んでくれた姿を見ると、いずれはバカンス中にもっと星の見える場所へ連れて行くのもありかもしれないという気持ちが沸々とわいてくる。勿論、人混みのない場所で。
通りを抜け、街を象徴する川に架けられた橋を渡って郊外へ出ると川からそう遠くない場所にちょっとした高台がある。ある時タンクレディが穴場として教えてくれたそこへ向けて歩みを進めると、ここに至るまでにもかなり歩いているはずのマヒナの歩みは一層活気を帯び始めた。今にもスキップしそうな軽快な足取りに、リナルドも少し怯んでしまう。アローラの雪山で育ったとは聞いていたが、どうやらそこで無自覚なまま足腰と肺活量が鍛えられたらしい。
道中見つけた自動販売機にマヒナが釘付けになり、ビスケットとネクター(と自分用のカフェオレ)を購入してから緩やかな坂を登ると、その先にはがらんとした広場が待っていた。丘の上に建てられた、地元民でも知る人ぞ知るそこに着くな否やぱっとマヒナが繋いでいたリナルドの手を解き、一目散に城壁と思わしきレンガの壁に駆け寄る。小さい体のどこにパワフルさが秘められているのやら、ベンチに座ってカフェオレとビスケットをお供にのんびり星を眺めたかったリナルドの目論みは見事に砕け散り、急いでマヒナの後を追う。
街の何某の英雄の銅像を通り過ぎ、夜に目にするには少々不気味なオークの影を横切ってマヒナと合流すると、彼女は早速星座早見盤を取り出し、日付を合わせているところだった。レンガの壁の上に自動販売機で買ったものを置くと、リナルドは魔法でパッと光の球を作り出し、星見の邪魔にならない程度に周囲を照らす。
「いまは何時?」
「九時過ぎ。この時間に誰もいないのはありがたいな」
教えた通りにマヒナが早見盤の目盛りを合わせていく姿を横目に、リナルドは眼下に見える明かりの消えた街並みに視線を移す。この場所は天体観測以上に、高台の下に広がる景色で通に知られている場所だが、何も見えない場所を見下ろしたところで面白味は何もない。いや、昼でも見知った街を眺めたところでそれ以上の感想は何もでてこないだろう。ただ「街がある」以上のことは何も浮かばないのだが、ふと横でふんふん鼻息を荒くしながらコンパスを取り出すマヒナが視界に入ったところで考えてしまう。昼にこの景色を見たら、マヒナならどう感じるのだろう。まだまだ自分はマヒナの全てを知らない。少しでも彼女の事を知りたい気持ちなら魔法に関する知識欲並みにあった。
「マヒナが天体観測好きなのは、お父さんの影響だったな」
「うん。パパがいっぱいおほしさまのことを教えてくれたんだよ……そのあかるいのって消せる?」
ビスケットを口に放り投げ、マヒナにも一枚渡したところで光球の魔法を消す。たちまち街灯の寂しい光だけに二人が取り残される構図となったが、上を見上げれば満点の星空が空を覆い尽くすように光り輝いていた。バカンス期間になってから数回決行している星見だが、未だ非現実的な上空の彩りには圧倒されすぎてプラネタリウムのようだという月並みな感想しか出てこない。
「どんな星を教えてくれたんだ?」
「えっと、釣り針みたいなおほしさまがあるの、わかる?」
マヒナの事を知りたい一心で天文学を学び直している最中でも、いきなり無数の星から特定の星座を探せと言われてもピンとこない。首が痛くなるまで見上げていれば見つかるだろうと壁に寄りかかっていると、マヒナが星座早見盤を見せて空を指差した。
「ははあ、蠍座か」
「あれね、アローラのえいゆうの魔法の釣り針なんだよ。釣り針でアローラの島を海からひっぱりあげたんだって」
「そんな話があるのか」
「うん、パパがいちばん最初におしえてくれたのがそれだったから、マヒナも最初はそのおほしさまを探している」
「一番最初? 星になったお父さんの星はいつ探すんだ?」
マヒナの事を知るために、普段なら右から左へ聞き流す他人の情報をなるべく覚えようという気になったのは、リナルド自身も驚くべき変化だった。彼女のぬいぐるみ達の珍妙な名前を覚えることは諦めたが、「父親が星になってマヒナを見守っている」話は流石に記憶の引き出しからすぐに取り出せるところにある。
「魔法の釣り針のおほしさまが見えるときはその次に。見えないときは、いちばん最初に。あるといいなあっておもいながら探すの」
あるといいな、その言葉に引っ掛かりを覚えながらリナルドはカフェオレを啜る。
「あるだろ流石に。マヒナが会いたいって望むなら」
「でも、おほしさまってずっと見れるものじゃないよ? 魔法の釣り針のおほしさまも夏の間だけしか見られない。マヒナおもったの。パパもそうなのかなぁって」
うっすら見えるマヒナの横顔に、寂しさの感情が浮かぶ。彼女の好きなものへの熱心さからたどり着いてしまった考えなのはリナルドでも理解できた。故郷を離れてだいぶ経つが、それでもマヒナにとっての父親の記憶はまだ鮮明なもの、ぎゅっと早見盤を抱きしめるマヒナに、リナルドは返す言葉を詰まらせる。
「星になって見守る」という言葉の何と無責任なことか! 星というものは大抵特定の時期にしか見られない代物で、季節ごとに違う様相を見せるところが醍醐味だというのに(リナルド自身は全て同じに見えるので、前にマヒナが言っていた言葉を反芻する)その星になってしまったら見上げたところで見えない時期だって出てくる。感受性の強いエルミニアさんであれば「星が大好きなマヒナちゃんへの、お父さんなりの優しさ」とでも答えそうだが、そもそも前提自体に現実味を感じないリナルドは「それ以前に寿命の行き着く先が星なんて発想こそくだらない」と言いかけた言葉をカフェオレで飲み込み、落ち着けと言いながらマヒナにネクターを飲ませて暫く考える。
そんな時、頭上の星空を見上げたのは一種の現実逃避に近かった。適当に間を作ってから「星が綺麗だな」とでも言えばその場をそれとなく収められるかもしれない、その一抹の可能性にもかけていたし、まだ完全に理解できない子供の接し方に疲れてしまったところもある。とにかく、この瞬間は視界からマヒナを入れないようにしたかった。
リナルドにとっての星空は、星の瞬きや座標が関連する魔法があることへの関心が半数を占めている。その気になればリナルドも星空を使って少し先の未来を予知したり、遠くの景色を透視する事もできなくもないが、今まで一度も魔法を使わなかったのは単に未来も遠くの景色にも興味がなかったからである。
残りの半数は、マヒナとの繋がり。彼女の“好き”を通して今までも色々な一面を知ることができた。マヒナの故郷のことや趣味嗜好、その他今考えていることや思っていることの共有。それが多幸感に満ちた時間だとリナルドは初めて知り、今まで見ていた景色が少しだけ変わったような感覚を覚えた。そこで視界や思考からマヒナを入れないようにしていたはずなのに結局彼女に回帰している事に思わずため息が漏れる。結局俺は、マヒナが大切で大切で仕方ないのだ。
そのタイミングで北極星を認識できたのは、リナルドにとっては幸運だった。夏の大三角が、アンタレスがと言われても全部同じに見えるリナルドでも、道標にもなる北極星だけはどの星か探せる。白く輝く星を目にした瞬間リナルドは急いでカバンから星座図鑑を取り出し、以前軽く読んだだけの項目を読み返す。これだ。
「マヒナ、夏でも冬でも見られる星がある事を知らないのか?」
図鑑をカバンに突っ込むと、マヒナの肩に手を置きニヤリと口角を上げてみせる。
「なつでもふゆでも……あっ!」
マヒナが見上げた先はまさに先ほどリナルドが見上げた方角と同じだった。彼女が目を見開いたところでフンと鼻も鳴らしてみせる。
「ああ、北極星なんていくつあっても良いだろう? マヒナのお父さんはいつだって見守ってくれている。それに星空が見えない時間帯は俺が北極星になったって良い。お前は一人じゃない」
「うん」相変わらず早見盤を抱きしめながら、上目遣いにマヒナが見上げる。「でも、北極星はひとつだけだよ?」
「じゃあえっと、柄杓星だ、あれも一年中見られる星だから、あのどれかをお父さんの星ということにすれば……」
星座図鑑の内容を思い出そうとするリナルドの前でマヒナはぽかんとしていたが、やがてその表情が大きく綻ぶ。
「おにいちゃん、ありがとう」
「……まあな」
マヒナが今後何の星を父親の星に定めるかは知らない。それでも一つだけ確かなのは、マヒナの寂しさが和らいだ事だ。それを更に確かなものにするため、彼女を抱き上げてぎゅっと抱きしめてやる。そうだ、彼女には北極星がいくつもある。マヒナは否定していたが、確かな道標なら複数あっても良い。そのうち大きくなった時には、彼女自身の「道標」が生まれるかもしれないが、今は導く存在としてありたい。
マヒナの背中に片腕を回した時、マヒナも同じように小さな両腕で背中にしがみつこうとしていた。それが愛おしくてリナルドは更に腕の力を強める。種族柄彼女の体の冷たさは相変わらずだが、今はそれが安らげる温かさに感じた。
「おにいちゃんはどのおほしさまが好き?」
そろそろ帰る頃合いだと準備を始めた時、マヒナに言われはっとする。そう言えばマヒナの事を知ろうとは常日頃から考えていたが、自分のことを発信しようと思ったことはあまりない。秘密が多いと言えばそれまでだが、好奇心の塊の瞳で見つめられると少しは明かしても良い気になってくる。全く、彼女は蠱惑的だ。
「おにいちゃんはどれも同じ星空に見えるからな。最近やっと分かってきたオリオン座とかだな」
「えー、全然ちがうよ? オリオン座以外にもマヒナがおしえてあげる!」
「おい、そろそろ暗くなるし帰り支度を……」
「おねがい! ちょっとだけだから!」
こうしてマヒナに星座早見盤と双眼鏡を渡されると、リナルドはまた星空の世界へと引き戻される。またマヒナの好きを共有する時間だ、一体どんな話を聞かされるのだろうか。面倒に感じながらも心の奥底では、それを楽しみにする自分がいて、あえてリナルドは否定をしなかった。
マヒナの拙い天の川の説明を聞きながら、双眼鏡で川のように見える星々を観察する。流石に過去までは教えられないが、魔法が好きで、とにかく魔法で、一にも二にも魔法で、それ以外だと学術書を読んだり、コーヒーを飲む事が至福の時間だということなら教えられる。星空のことも更に勉強して、本当に好きな星を教えたって良い。その時が来ればきっとマヒナは大喜びでその星のことを解説してくれるだろう、その日が今から待ち遠しい。
だが、先ほど出任せでオリオン座と答えた話を訂正する時間も必要になってくるだろう。マヒナがあんなに喜んでくれた姿が目に焼き付いて離れないから、きっと時が経っても好きな星は北極星と答えるに違いない。一年中動かずに空に居続ける、基盤のような星。リナルドにとってそれは、マヒナでもあるように思えたから。
(2025/08)

天体観測大好きなマヒナちゃんと、マヒナちゃんに歩み寄ろうとするリナルドの話。
数年前にネットで目にした「北極星が増えた」の表現がいいなと思い、その単語から膨らませて書きました。