午前中から傘を片手に、この広い赤煉瓦の街を駆け回るなんて朝起きた時には思いもしなかった。約束の時間に待ち合わせ場所に行く、ただそれだけの簡単な話なのに肝心の相手がいつまで経っても来ないのが予想外だったからだ──これまでの振る舞いから、到底約束を破るとは思えない奴である。十分、二十分と経っても待ち合わせ場所である馬鹿でかい昇降機の前に姿を見せないのだから、当然僕は痺れを切らして彼の携帯電話に電話をかけた。しかし返ってきたのは「お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入ってないためかかりません」という機械的なアナウンス。留守番電話ならまだしも、こんな事があるだろうか?
次いで彼の住居ことモトストークの街一番の屋敷に電話をかけてみる。そこで繋がった使用人らしき相手に行方を尋ねても「家にはいない、行き先も告げられてない」と一言。そんな事情で約束をすっぽかした苛立ちと一抹の不安を抱え、小雨の降る中トレヴァーを探す羽目になったのだった。
既に二往復はしたであろう昇降機に乗り、下のエリアの新市街へと降り立つ。トレヴァーの見間違えようのないシルエットを探しながら街の住民の様子も観察するのは、トレヴァーがこの街の超有名人故、住民の近くにいれば周りの反応で分かるだろうと考えたからである。恐らく彼が近くにいれば黄色い声が上がるに違いない、何てったってこの街を治める一族の子息なのだから。例え次期当主の座を降りてもその人気は計り知れず、この街限定で言うなら世界的なスターよりも注目を集めるであろう存在だ。もっとも彼が巧妙に変装していれば話は別なのだが。
レコードショップの前を通り、バトルカフェの前を横切るとグウとお腹の鳴る音がする。今頃はどこかのカフェかパブで少し早い昼ご飯を取っていただろうと考えると、ますますトレヴァーが消えた理由が知りたくなる。この僕を放っておいてどこをほっつき歩いているんだ? 通りを早足で歩きながら考えるのは、彼に会った時にどう言ってやろうかという言葉だったが、きっと複数のパターンを決めても最終的に「心配かけさせやがって!」の一言に尽きると結論を出してからは、最後に連絡を交わした時のトレヴァーに不審な点がなかったかを思い返す事にした。会う約束を交わしたのは一週間前のこと、電話越しに聞こえる声を聞く限り、大きな舞台を控えたパフォーマーとしての緊張感も伝わりつつ、いつも通りのトレヴァーだった。僕が会うのを楽しみにしている、と言えばトレヴァーは弾んだ声で返してくれた。
『俺もだ、エリックと会うのが待ち遠しい。大きなショーの前に君の顔が見たいんだ』
これを面と向かって言われなかった事を安堵した。きっと目の前に彼がいたら不自然に高鳴る心臓を抑えようと挙動不審になっていたところを見られたに違いない。僕の事を親友としか見ていない相手にこの思いを打ち明ける勇気なんて、今は持ち合わせていない。だから平然を装って電話を切った。
そこまで考えて待てよ、と傘の持ち手に力を入れる。電話を切る前に彼はこう言っていなかったか?
『暫くショーの準備に集中したいから、会う日まで電話をかけないでほしい』
これまでもショーが迫る時期に電話をかけた事はあったが、こんな事を言われたのは初めてだった。それ程今回のショーには力を入れていることが伺えるが、流石のトレヴァーも準備ばかりに頭が回って今日の事を忘れるような真似はしないだろう。互いが忙しくても、定期的な文通と電話は欠かさず続けてきた。今回だって僕との約束くらい覚えているはずだ、そう信じたい。
「全く、トレヴァーはどこにいるんだ?」
半分は独り言のように呟いた言葉だったが、その言葉に呼応するように傘にトレヴァーの顔が張り付いた。正しくは「風に吹かれてチラシが傘に張り付いた」だが、雨で湿ったチラシを手に取れば、そこには丁度一週間後に行われるトレヴァーのショーの内容がでかでかと書かれていた。各地を転々としながら小、中規模なショーを披露していた彼が初めてホームタウンで行う大きめなショーとなれば、ファン以上にこの街の住民がこぞってチケットを買い求めるに決まっている。僕がこの街のホテルに到着した時も、ロビーに併設されたバーのマスターが客相手にいかにトレヴァーが素晴らしい貴族兼パフォーマーであり、地元で開かれるショーを待ち望んでいたかを熱弁していた。全国区で見ればようやく知名度が上がり始めている彼が、地元で神話以上に英雄視されているのを見ると誇らしいと思う反面、心配に思えてくる。期待を力に変えられる僕でもこんなプレッシャー、耐えられそうにない。ましてや幼い頃から街の住民に愛され、期待を背負ってきたトレヴァーだ、もしかして今回のショーの反響が重荷になって逃げ出したのでは? チラシに写る杖を構えたトレヴァーと目が合い、いやいやと首を振る。彼は物事に真摯に向き合うタイプだ、きっと当日は現れて素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるはず。だからこそ僕との電話を絶った訳だし、そこまで悲観する事はないと信じている。
チラシを水溜りに投げ捨て、ため息をつく。トレヴァーのいそうな場所は大体調べたが、これ以上思い当たるところが浮かばない。或いはこの街で出た可能性だってある。僕との約束がありながら街から出るか? とも考えたがそこまで思考を巡らせた方が良いだろう。
こうして行き着いた結論は「まずワイルドエリアの門番に聞いてみよう」というものだった。これで駄目なら三番道路と第二鉱山の管理人に聞けば良い、それでも駄目なら地元のアーマーガアタクシーの会社や駅に電話を入れて……。背中にじっとりと汗が張り付く不快感を振り切って歩き出したその時に、ふと川のほとりを見なければ僕は思いついた面倒な行程を全てこなしていたところだった。視界に映ったそこには傘も刺さずに一人、灰色のコートを羽織った長身の男がベンチに座っていた。雨の勢いは弱まっているが、濡れたベンチに座りたがる物好きがいるだろうか? 最初は路上生活者かと視線を戻そうとしたが、雨に濡れてもなお鮮やかな髪の色を見て僕は思わず妙な声を上げてしまった。こんな髪色をした相手をトレヴァー以外に知っているとすれば、彼の母親くらいしかいない。
急いで長い階段を降り、川のほとりへと向かう。一番奥のベンチに座る彼は紛れもなくトレヴァーだ、項垂れて顔は見えないが、髪の色と身長が全てを物語っていると言っても過言ではない。はやる気持ちのままトレヴァーの元へと向かう。苛立ちは消え、安堵感と只々トレヴァーに会いたかったという気持ちをつのらせたまま──。
「トレヴァー、探したぞ!全くこんなところに……」
「来るな!」
全く予想外の言葉だった。危うく足を滑らせかけてよろめき、なんとか踏ん張って立ち止まる。何が起こったのか分からなかった。彼がここまで声を荒げたところを聞いた事がなかったし、当然僕に向かって強い言葉を言い放つのもこれが初めてだった。まるで一切合切を拒絶されたような、鋭く冷たい一言。足が石のように動かなくなり、驚きと困惑と悲しみで心の中がぐちゃぐちゃになりそうになる。確かに、心の病にかかった兄に鉛筆を投げられて同じような言葉を言われた事はあったが、それとは事情が違う。相手はいつも優しく、穏やかなトレヴァーだ、普段の彼から想像もつかない反応をされたらどうすれば良いか分からなくなる。それにはっきり拒絶された事がショックだった。まるで絶交を突きつけられたような気持ちで……。
「……待ってくれ、まさか君とは思わなくて。ごめん、戻ってきてくれ」
相手が顔を上げた時、僕は石のような足で無理やり後退りしている最中だった。ひどく憔悴した表情で言われると、例え強い言葉を投げられた後でもトレヴァーの元に寄らざるを得ない。動けるようになった足で彼の元に駆け寄り、その頭に傘をさす。
「僕との約束をすっぽかすとは良い度胸だな、何をしてたんだ?」
「ごめん、本当に……そんなつもりじゃなかった。俺が全部悪い」
前方を見れば雨は止んでいた。傘をそっと閉じてトレヴァーの隣に座る。ズボンが濡れるのは仕方ない、それよりも明らかに様子のおかしい相手に寄り添う事が先決だ。トレヴァーの方を向くと、彼はまたがっくりと項垂れた姿勢に戻っていた。水滴の滴る長い髪で表情を伺うことは難しいが、いつもの雰囲気でないのは明白だった。
「それより炎タイプなのに、そんなに濡れて!僕のホテルの風呂を貸してやる」
「ああ……ありがとう」
トレヴァーの嫌いなものは飛行船と雨だ。その中でも雨は自慢の髪が濡れると天に向かって憎悪を露わにする程だったのに、今の彼は全身が濡れ鼠の状態になっている。彼の身に何があったのだ? そっと顔を覗き込もうと前のめりになってみる。
「立てるか?」
「……いや、もう少しだけこうさせてほしい」
「分かった」一瞬前髪の隙間から見えた充血した目に見なかったふりをする。「でも風邪引くからな、ヤバそうになったら意地でも連れて行く」
ふと、トレヴァーの背中がここまで小さく見えた事があったかを考える。僕の知るトレヴァーはいつも背筋を伸ばして、穏やかで紳士的、それでいて時に年相応のあどけない表情を見せるマルヤクデだった。僕と背丈が同等でいながら、時々僕より大きいと錯覚してしまう、そんな彼がここまで沈んでいると、不安が伝染しそうになる感覚はあったが、不思議と冷静に物事を俯瞰できた。確かに彼が弱気になった事はこれが初めてではない、文通だけでやり取りしていた時代に今より売れなかったトレヴァーが、パフォーマーを辞めようかと手紙に打ち明けてくれた事があった。その時も確かこうして寄り添っているつもりで返事の手紙を書き、後日立ち直った彼から手紙が送られてきた。今回だってまた話を聞いて、問題に向き合っていけば良い。
「……トレヴァー、何があったんだ?」
「……どうしよう」小さな背中が僅かに震える。「エリック、俺、俺……」
自分を抱きしめながら、小声でうわ言のようにしか呟かない姿に彼の背景に深刻な何かがあるのを見てとった。こういう時に何をすれば良いか、最善を尽くすには? ぱっと閃いたのは出先でパニック状態に陥った兄にしてあげる事を応用する事だった。まず着ているフード付きの上着を脱ぐと、トレヴァーの頭にかけてやる。そしてゆっくり肩をポンポンと叩いてやる。僕が来たからには大丈夫だ。
「ゆっくりで良い、今は僕と君しかいない」
上着の中からフーッと感情を抑え込むような息遣いがする。相変わらず背中も震えるばかりで、どう声をかけようか言葉に詰まる。「泣いてもいい」は上から目線すぎる、「何とかなる」はどうしようもない事態には薄っぺらい言葉となる。肩を叩くリズムに合わせて暫く思考を巡らせ、自分の言葉で伝えようと試みる。
「僕は何も見ていない、溜め込むな」
感情を抑え込む息遣いに微かな声が混じり始める。ぽたぽたとトレヴァーの膝に大粒の水滴が落ちてはズボンの生地に吸収されていく。一瞬、また雨が降り出したのかと空を見上げたが、鉛色の空が広がるばかりなのを確認すると、トレヴァーの肩を叩くことに意識を集中させた。
何も見てないとは言ったが、残念ながら声は筒抜けだ──きっとトレヴァーもそれは知っているはずだろう。それでも彼が僕を信じて身を委ねてくれたのは嬉しかった。この事を僕は誰にも漏らさないと今決め、そして今この場に誰かが来れば最大威力の吹雪で相手を追い払おうと思っている。トレヴァーのこの感情を共有できるのは僕だけで良い。結局彼の身に何があったのかは分からないままだが、今はこうして感情を吐き出す方が最善だろう。
僕から言わせればトレヴァーは泣くのが下手くそだった。嗚咽混じりの声をあげながら、それでも控えめに鼻を啜ったり、咳込む様子は見ていていじらしくも見える。それはあたかも泣く事が初めてであるようにも見えたが、本当にそうなのかもしれないと思い始めたのは、トレヴァーの泣くところを見たのがこれが最初だからだった。
そう考えた理由はもう一つある。彼の肩を叩くうち、上着越しに聞こえる彼の息遣いが苦しげなものに変わったからだった。不吉な呼吸音と乱れた息遣いは過呼吸としか言い様のないもので、これには僕も焦るしかなかった。
「おいトレヴァー、僕に合わせて息をするんだ!まず吸って……」
こうして呼吸を教えるうちに僕の頭からは空腹や時間経過が綺麗さっぱり抜け落ち、正午の鐘が鳴り響くのを遠目に聞きながら考えるのは、泣き方を教えてやる必要があるかを目の前のトレヴァーに向けて思案する事だった。泣き方を知らずよく今の今まで生きてこられたものである。
ショーの日よりも前からホテル・スボミーインにチェックインしているのは、暫く別な環境で詩作に取り掛かりたかった事と、トレヴァーの街をもっと知りたいという好奇心からだった。たまにはこんな過ごし方をしても良いだろうと滞在を思いつき、到着したのが昨日のこと。それで服を何着か持ってきていた事がこの状況で役立った。
トレヴァーに風呂場を貸している間に雨や汗で濡れた服を着替え、脱衣所にバスローブと替えの服を置いてから二つの洗濯カゴに僕とトレヴァーの服を分けて入れる。今からコインランドリーに行っても良いが、ソファーに体を預けた瞬間疲労感と空腹感に襲われて洗濯機を回す気になれなくなったので、暇つぶしにとテレビをつける。今は体も頭も休めたい、テレビを適当に流し見しながらトレヴァーが上がってくるまでのんびりするつもりだったが、映し出された番組がガラルでも人気の視聴者参加型オーディション番組の再放送だったのがいけなかった。この手の番組を見ると審査員に混じって参加者を評価したくなるのが常で、気付けば僕はテレビの前でブツブツ独り言を言う不審者に成り果てていた。
「これは二つ星だな、引き込まれるけどピンと来ないというか……」
お腹の虫が思い出したように強烈な存在感を放ったのは、タイレーツのエキゾチックな踊りに素人目線で評価を付けていた時だった。最早空腹も別なもので誤魔化しが効かないくらいになっている。ちらと時計を見れば短針は一と二の中間を差しており、反射的にため息が漏れる。数日前から考えていた今日の予定が破綻したのはこの際割り切る事として、せめて何かで口を満たしたい。何なら今ルームサービスで何か頼んでも良いかもしれない、サンドイッチとかスコーンとか、それに紅茶をつければ上々か。
「これは三つ星で良い。磨けば光る才能だ」
空腹とテレビで頭が支配されてる状態で背後のトレヴァーに気付ける訳がなかった。つい僕は声を上げて、コメディ番組の芸人よろしく驚いてみせる。振り向けば彼は白いバスローブに身を包み、テレビをじっと見つめていた。炉を思わせる金色の瞳と整った顔に、ついさっきまで泣きじゃくっていた痕は見当たらないが、憂を帯びた雰囲気は隠しきれていない。
「いつの間に?」
「タイレーツの踊りが始まった時から。その、俺のせいで色々と台無しにして、本当ごめん」
「あー、何か事情があるみたいだし僕は怒っていない。それにご飯なんていつでも食べられる」お腹の音も聞かれていたのかと思うと急激に顔が熱くなる。
「君には酷いことを言ってしまった。こんなみっともない姿を見られたくなかったんだ……びっくりしたよな」
「いや、そんな事はないさ。確かにびっくりしたけど」
トレヴァーが横に座る。ベンチに座った時は他の事で手一杯すぎて忘れていたが、僕は思いを寄せている相手がこうして気配や体温を感じ取れるまで近くに寄られると情緒がめちゃくちゃになるのである。トレヴァーの温かさと息遣いを至近距離で感じ取れる状況に「今も君の怒声に若干怯えている」と言いかけた言葉は喉の奥に引っ込み、この激しい鼓動が彼の耳に聞こえないか必死に胸を押さえる羽目になりながら会話を続ける事になった。駄目だ、そういう雰囲気ではないのに今の彼が唆る見た目をしているのも悪い。バスローブからのぞく胸元や艶やかな脚のラインは、こんな状況でなかったらトイレに駆け込んで高揚感と罪悪感を吐き出していたに違いない。そう考えると彼の泣き顔を見なかった事に対しても若干の後悔が生まれてくる。
「俺は弱い奴だ、酷いところを全部曝け出してしまった」
「泣く事の何が弱いって? そんなの誰にだってある事だ。辛かったり悲しければ泣けば良い、それを悪く言う奴がいたら僕が殴り飛ばしてやる」
「……昔から、弱みを見せるな、泣くなと父さんや周りに言われて育ったんだ。そう簡単に考えを変えられない」
「そ、そうか……」
テレビは最早ただのBGMと化していた。確かにトレヴァーは扇情的だが、震える声で再び自身を抱きしめる姿を見るとやましい気持ちなんかより徐々に身を案じる不安でいっぱいになる。いつもは大人びた立ち振る舞いで記憶から抜け落ちるが、彼は僕より年下なのだ。僕が力になれるなら何とかしてあげたい。
「それより、さっきの俺を見て幻滅しただろう。本音で言ってくれて構わない」
「本音で良いんだな、それなら」咳払いしてトレヴァーの金色の目を覗き込む。「幻滅したというか、安心した。君にも人並みの感情があるんだなってさ。僕の前でならいくらでもそういうところを見せてくれて構わない」
「……何だよ、それ」
実のところ、僕はまたトレヴァーが泣き出すんじゃないかとヒヤヒヤしたが、彼は力なく笑った後でフッと息をついただけだった。まだ表情は暗いが、少しずつリラックスできているのは良い兆候だ。
トレヴァーはおもむろに立ち上がった。そのまま窓辺に向かうと、じっと景色を眺め始める。これもきっと良い兆候の一つだ。具体的に何がとは言えないが、少なくとも彼の横顔は今日出会った時よりはるかにマシになっている。
「良い景色だよな、街を見下ろしたくて少し高い階の部屋を取ったんだ」
「そうだな、君は良い判断をした」
「やっぱりトレヴァーは見慣れているのか? 自分の街の景色」
ソファーの背もたれに首を預け、天井を見上げながら尋ねた問いに答えが返ってくるのは少し時間がかかった。
「実はこうして街を見下ろす事はあまりなかったんだ。俺の知ってる街は自分の足で歩いた景色で……そこにはいつも街の人達がいた。皆俺を見て手を振るんだよ、いつも応援しているって。だから俺は皆の期待に応えなきゃって昔から思っている……今もね」
頭を起こしてまっすぐトレヴァーを見る。それと同時にトレヴァーが強張りつつも覚悟を決めた目でこちらを向いたため、ぱっと目が合う。
「本当に話してくれるのか?」
「ここまで世話を焼いてくれた君には話しておこうと思って。俺のことが気になるんだろう」
「まあ、君が情緒不安定になっているとこっちも心配だし」
「それじゃ」壁に寄りかかり、腕を組むとトレヴァーはゆっくりと口を開いた。「エリックだけに話すが、今の俺は技も魔法も何も出せない」
「何だって!?」信じがたい話に目をパチクリさせる。
「本当だ、炎を出したり虫技を使ったり、魔法も今の俺にはない」
「それでよく街を歩けたな!? もし誰かに襲われたらどうしてたんだ?」
「技や魔法は使えないが、体術くらいは心得ている」
この街の治安を疑っているつもりではないが、例え悪漢に襲われたとして今の心が乱れているトレヴァーが咄嗟に反撃できたかと言われたら、間違いなくできないと推測できる。そう考えると丸腰の状態で雨に打たれていた事にぞっとする。
「今回のショーは街全体の祭りの一貫で行われる。一年に一回の祝祭のトリとして俺が選ばれて、それに相応しいパフォーマンスをしなければと練習していたんだ。それなのに昨日、突然炎が出せなくなって、魔法も使えなくなって……」
「病院は行ったのか?」
「行ったさ。一時的なストレスによるものだろうと言われて薬も貰ってきた。でも後一週間しか残されてないんだ、こんな無様な状態のままでいられると思うか?俺のショーを何よりも見たがっている相手がゴマンといるんだ、早く元のコンディションに戻して練習を続けなきゃいけない」
「ふむふむ」
話の筋が少しずつ見えてきた。これは幼い頃から街に愛されてきた、責任感が強い名誉市民以上の存在だからこそ起こってしまったアクシデントだ。それがパフォーマーとして活動してまだ二年と浅いとなれば尚更、避けようのない事だった。
「一時的なものなら寝て起きれば治るだろうと思っていた、いやそう信じていた。だから起きて、エリックとの約束の時間までに何とかしようと人気のない場所で炎や魔法を出してみようと試みて……」
「で、僕との約束を忘れたと」
「それは本当に申し訳ない。すぐ行くつもりだったんだ」
それだけ聞ければ充分だった。トレヴァーの様子から深刻な話が飛び出す事をある程度覚悟はしていたため、予想外に驚くことは無かった。話の要点も掴めている。明らかにトレヴァーはプレッシャーに押し潰されていた。今まで以上の期待に、こうあるべきという視線に。医学的な観点から見る事はできないが、理由が明確ならば掛けられる言葉はいくつかある。
「一つ聞くけど、医者から安静にしろとは言われたか?」
「言われたけど、じっとなんてしていられない!」
「まずはそれだな。医者の言う事は聞く事、分別のつく君なら大人しく聞けると思っていたんだが」
「うっ……」
ぐうの音も出ないトレヴァーを前に、冷静な彼がここまで取り乱している現状が僕にも辛く感じてくる。彼が今回のショーに本気な事も嫌と言うくらいに伝わってきた。いつだってトレヴァーはできる事を精一杯やろうと努力している。
「今のトレヴァーは四六時中祭りやショーの事を考えすぎて気が狂いそうになっているんだ。僕だって同じ立場だったら今頃潰れている。それでも足掻けるんだから君は凄いし、強いよ」
「エリック……」
「だからこそ、今は休んで次に備えるべき時期なんじゃないか? それこそ根源から離れて、調子を取り戻すまでショーの事を忘れるのが今の君には必要なように思うんだが」
「無理だ。忘れる事なんて出来ない」
「なるほど」今日という日にトレヴァーと会う約束をしたのは良いタイミングだったかもしれない。「でも今日は僕といるんだから、僕との時間を目一杯楽しんで欲しいんだけどな」
ソファーから立ち上がり、トレヴァーの元へと歩み寄るとその右手を強く握りしめる。これが正しいかどうかは確証が持てない上、そもそもお腹が空いてろくに頭が回らない時にこんな話をすべきじゃなかったとさえ思えてくる。それでも彼が愛おしい存在であることに変わりはなく、彼が辛い表情をするところも長い間見続けたくなかった。この思いだけでも伝わって欲しい。
「オッケー」トレヴァーが握り返してくる。「そもそも今日はそういう日だったからな。君との時間を一番に考えるよ」
「言ったな? いいか、それじゃ今日のトレヴァーはモトストークの統治者の子息でもなく、今を煌めくパフォーマーでもなく、ただのトレヴァーだ。僕の親友としてのね」
親友と声に出す事には若干の心苦しさを感じたが(トレヴァーからすれば、これが片思いなんて当然知る由もないのだ)、ともあれ彼は分かってくれた。はにかみながら不器用に笑顔を作ってみせたトレヴァーにこちらもつられて微笑んだ時、ググウと大きな音が部屋に響き渡った。これがトレヴァーから鳴ったのか僕から鳴ったのか、それはどうでもいい。大事なのはまず食べる事。それを思い出したところでトレヴァーの肩の力が抜けるのが右手を通じて伝わってきた。
「食べたいところがあるんだ、着いてきてもらって良いかな」
「それじゃあ君はまず着替えて来ないとな。背丈が同じくらいなら、僕の服くらい着られるだろう?」
昼ご飯の時間にしては遅く、おやつの時間にしては早い。そんな中途半端な時間にも関わらず店内はそれなりに客の姿があった。レストランではなく喫茶店形式だとそうなるか、と思いつつ店に入って注文し、目立たない奥の席に陣取るとトレヴァーが目深に被った帽子の隙間からそっと店内の様子を伺い始める。
「そういう動きをするとかえって怪しまれるんじゃないか」
「……だよな。でも今日ばかりは誰にも見つかりたくなくて」
トレヴァーの事を考えるとこの街を出て、別な街を散策する予定でも良かったのではないかと思ったが、時間が時間だという理由で終日モトストークの街を歩く事になった。第一トレヴァーが入りたいと言った店は、ガラルではここしかないのである。
「堂々としてな、いつも似たり寄ったりな私服ばかり着る君がこういう服を着るなんて誰も思わないさ」
「数は少ないが、クローゼットを探せばありそうな服ではある」
そう言ってトレヴァーはベージュのポンチョを軽く整えた。今の彼は髪色に合う服装を極めたらこうなった、と語るお決まりのシックでクールな印象の服装ではなく、いかにも僕が好むふわふわでゆるっとした服装に身を包んでいる。経緯を考えれば当たり前だが僕色に染め上げているようで、着替えたばかりの姿を見た時には頭の中から語彙という語彙が消えて何も言葉を返せなかった。しかし見慣れてきた今なら可愛いの一言くらいは言えるかもしれない。もっとダイレクトに言うならセクシーだ。それにトレヴァーが持っていた、懐にしまっていた為に雨の被害を逃れていた黒いキャスケット。触覚がゾワゾワするという理由で僕自身は被り物を身につけないが、他人が被る姿を見るのは好きだ。もっとも人避けの理由で僕の大好きな鮮やかな髪を帽子の中に隠してしまっているのは、仕方ないにしろマイナス点をつけたくなるが。
暫く僕たちは空腹を紛らわせる為に水を飲み、ガラルの地名縛りでしりとりに興じた。負けず嫌いなトレヴァーが同じ文字で終わる地名ばかりを連発し、僕が頭を捻らせているタイミングで待ちに待ったボカディージョとカフェ・コンレチェが届かなければ降参という屈辱に塗れていたところだっただろう。ともあれやっと僕たちは昼ご飯にありつけた。ここが本場のパルデア料理を売りにした喫茶店故に、料理の名前がやや珍妙に聞こえるのは気にしない、ボカディージョは香ばしいバゲットにトルティージャとレタスの相性が最高だったし、カフェ・コンレチェは大層な名前だが、言うなればカフェラテなので余程悪い素材を使わなければ一定の美味しさが確約されている。カフェインに過剰に反応しやすい虫タイプ向けにデカフェで提供されたのも評価したいところだった。
僕もトレヴァーもあまりにもお腹が空きすぎていたため、暫くは沈黙が続いていたが、僕がトレヴァーの幸せそうな食べっぷりに目を向けてドキリとし、余裕の出てきたトレヴァーが僕の気持ちも知らずにホテルで見たオーディション番組の感想を呑気に口にしたところで再び会話が再開された。他愛のない未成年同士の会話だ。コロコロ変わる話題にジョークを飛ばし、目を細めるトレヴァーの姿は、端から見れば気高きモトストークの当主子息には到底見えない。そうして自分の立場を離れ、トレヴァーという一人の男らしく振る舞う彼に僕は午前の事を思い返し、安堵感を感じていた。
「あっ、美味しい」金色の目を一層輝かせて二本目のボカディージョに齧り付くトレヴァーは、見ているこちらも笑顔になる。「下手すればパルデアで食べたやつより美味しいかもしれない」
「トレヴァーもパルデアに行ったことがあるのか?」
「ああ、一年前に一回ショーをやった事がある。小さい会場だったけど皆喜んでて……良い国だったよ。その口ぶりだと君も行った事があるみたいだな」
「大学時代に卒業論文の関係でね。面白い形の建物ばかりで心が躍ったよ、流石芸術の国だって」
トレヴァーのショーは全て見ている訳ではない。僕にも予定というものがあるし、避けようのないものには涙を飲んでスルーという選択肢を選んでいる。トレヴァーがパルデアで開演したショーは当時の雑誌によれば相当盛り上がったらしく、今になって見に行かなかった自分と予定に悔しさとと怨念がわいてくる。時間の神よ、空間の神よ、どうか僕を一年前のパルデアに降り立たせてくれたまえ。
「そう言えば、その時ファンに『パフォーマー以外の別な職業に就けるなら』て質問された事があったっけ」
「それは面白い、何て答えたんだ?」
「『何も思いつかない』だって本当にそうだったんだ。でも今、魔法も技も使えないってなると、俺には何ができるんだろうな」
食べかけのボカディージョに突然手をかざし始めたトレヴァーに、最初何を始めたのかと呆然とした顔を向け、数秒経ってバゲットの表面を焼こうとしていた事に気付いた時、僕は返答に困ってしまった。例えパフォーマーでも魔法使いでも貴族でもなくても、君が君だから好きである事に変わりはない。どんな姿になっても君を追い続けるし、今まで通りに接していきたい。思いついた言葉は唐突すぎて脳内で没にした。それよりも答えになるような答えを、と救いを求めるように喫茶店を見回した時、店内で流れているノリの良いラテンの音楽が耳に入ってきた。これだ。
「君には音楽の才能がある、そのまま君の従者とバンドを組めば良い。作詞なら僕も手伝える」
バゲットにかざしていた手を諦めと共に下ろし、残っているボカディージョを二口食べてふむとトレヴァーが考え込む。悪くはない答えのはずだ、それに僕は本気だった。
「グロリアとだったら音楽性の違いで解散しそうだけど、君の作詞した歌を奏でるなら楽しそうだ」
「だろう?どんな内容の歌詞でも書いてやる。『一人にしてくれ、僕はやりたいようにやる』とかそういうのでも良いぞ」
「うーん」トレヴァーは少しの間天井を見上げ、小さく唸った後に視線を戻した。「楽しい歌が良い。『おいで、君を楽しませてやるよ』みたいな」
君を楽しませてやる。彼がよくパフォーマンスの場で観客席に向かって言う言葉だ。その時は流石に「君たち」になっているが、彼の根底にある精神の一端に改めて触れると、きっと彼はパフォーマー以外の職業に就いても周りを魅せる事に夢中になっていたんじゃないかと思える。たまたまパフォーマーに興味を持ったから今の姿になっただけで、料理を極めれば料理人になっていたかもしれないし、文才があれば小説家に……そう考えるともう少しだけ彼の深淵を覗きたくなる。
「そもそもどうしてトレヴァーは周りを楽しませようって考えたんだ?」
「やっぱり周りに色々と助けられた恩を返したいからさ。父さん母さんや屋敷で働く者達だけじゃない、街の皆にも昔から親切にされてきた。そうするうちに俺は彼らに対して何が出来るんだろうって思うようになって、昔の出来事からパフォーマンスができるじゃないか! てなって……今はもっと、色々な相手にこの気持ちを伝えたいって思うようになった訳だけど」
きっとトレヴァーは今の家じゃない、例えば中流階級の家に生まれて、魔法が元々使えなかったとしても同じように考えたはずだ。誠実で真っ直ぐで、だから僕はトレヴァーという男に心を掴まれてしまったのだ。トレヴァーのルックスそのものが素晴らしいのは当たり前だが、中に秘めた魂の眩さも目が眩むはずなのに見つめ続けていたい衝動に駆られる。そしてその光は彼を知るにつれて輝きや温かさが増してますます目が離せなくなる。そして同時に思うのだ、「この輝きを失わせてはいけない」と。
「君は最高の男だ」愛してる、と続けようとした言葉を何とか飲み込んで頬杖をつく。「だったら尚更命の洗濯が必要だ。ご飯は食べた、次は何をしたい? 信念を通したいなら君自身が元気にならないと」
「何でも良いんだな?」
豪快に僕の目の前でボカディージョを食べ終えたにも関わらず、昔から節制を徹底されていた環境下で育った者らしく、その訊ね方は控えめだった。僕が同じ立場ならもっと我儘を言ってやったところだ、可愛いという言葉が頭に浮かび、数センチ低いその体を抱きしめたくなってしまう。
「今日は君の行きたい場所に行く日だ、レコード屋でも良いし、ブティックでも良い」
「……映画館。見たい作品があるんだが中々時間が取れなくて」
その口ぶりがまるで意を決してメルヘンなコンセプトのカフェへの入店を決めたような聞こえ方で、つい吹き出してしまう。無論トレヴァーからは怪訝な顔をされて何とか取り繕う羽目になったのは言うまでもない。
「良いじゃないか映画なんて! B級でもホラーでも何でも付き合ってやる」
そう言いつつ、原作つきの映画と言われたらどうしたものかと冷や汗をかいたが、幸いにもトレヴァーが挙げた映画はオリジナル脚本の作品だった。今日はついてる日だ、僕の拘りを曲げずに済むばかりか、トレヴァーの好きを共有できる。
カフェ・コンレチェを飲み干しながら僕は神に感謝し、そして今日という日がトレヴァーの為にある事を祈った。神が慈悲深い性格だったら、誰よりも努力している相手を見て相応の報いを与えるに決まっている──少なくとも僕だったら、彼が眠りにつくまで安らぎと平穏を過剰に与えるところだ。
「何でエリックは本が原作の作品が嫌いなんだ?」
「僕は本を読んでる時に思い浮かべたイメージを大切にしたいんだ、それをコミカライズとか映画とかドラマで崩されるのが嫌なんだよ」
「つまり解釈違いを起こすのが苦手、と……」
帽子のつばを抑えながらトレヴァーが呟く。そんな会話を道すがら交わす事になったのは、見たばかりの映画の感想を語り合ううちに僕の拘りの話題になったからだった。僕が映画はオリジナルの脚本のものしか読まないと周りに言うと、大抵は「変わった奴」だの「原作つきも面白いのに?」と返ってくるが、トレヴァーは何も言わずに頷いてくれた。何だか僕を受け入れてくれたようで嬉しいと感じると同時に、体が熱くなる。彼こそ「何で?」と無神経に訊いてくれれば平常心でいられるのに、こうもすんなりと返されてしまっては顔を見る事すらできなくなる。きっと今僕の顔も赤くなっているに違いない、暫く風に当たって冷やそうと決めて僅かにトレヴァーから目を逸らし、雨上がりのやや強い風に身を任せる。
「それじゃあ、今回みたいなオリジナル脚本の映画がノベライズしたら読んだりするのか?」
「物によるね。もっとその作品を深掘りしたいと思ったら読むし、映画だけで充分だと思えば手に取らない。今回の映画は……読まなくても良いかな」
暫くはトレヴァーを意識しないよう、先ほどの映画の内容を思い浮かべる。太古から現代にタイムスリップしたトドロクツキとチヲハウハネが、路上ミュージシャンの音楽を耳にして感動し、現代でひと騒動を巻き起こすというコメディ味の強い内容は、頭を空っぽにして楽しめる純粋に面白い作品という感想を抱いた。ロックを題材にした作品なだけあって音楽もキャッチーなものが多く、特に僕はテレビCMで何度も耳にしていた主題歌が気に入り、その曲の為だけにサウンドトラックを購入するか悩む程だった。ロックはロックでも苦手な耳障りなタイプではなく、プログレ要素のあるお洒落な音楽は、トレヴァーが「俺の好きな音楽」と教えてくれたものに近く──。
くそっ、結局行き着く先はトレヴァーなのだ。ますます顔が火照る感覚にぶんぶんと首を振る。元々僕の好きな音楽はイッシュに根付いているようなジャンル、それこそカントリーやウェストコースト・ロックといったものだったのに、今音楽プレイヤーに入っている曲は実に三割をプログレロックやブリティッシュロックが占めている。例え好きな相手のためでも趣味嗜好を無理して変えようとは思わないが、無意識のうちにトレヴァーの好きなものを選びたがる自分がいるのは事実だ。果たしてそれは良い事なのか悪い事なのか。だから駅前を通り過ぎた時に「私を弾いて、私はあなたのものよ!」と赤文字で書かれたピンクのステッカーが貼られているアップライトピアノが目に入って、真っ先に思ったのは「トレヴァーが愛聴するような音楽が聴いてみたい」だった。
「トレヴァー」さりげなく彼のポンチョを引っ張ってピアノを指差す。「ピアノがある」
「本当だ」
トレヴァーは警戒する素振りもなく、好奇心のままといった感じにピアノに近寄り、僕も彼の数歩後ろをついて歩く。ピアノはポケモン達の行き来が比較的激しい駅前という場所にも関わらず、誰にも見向きされずにそこにあった。時折ちらと視線を向ける者はいるが、まるで普遍的すぎてコメントに困るオブジェのように目立たない存在と化している。街の活性化を目指してストリートピアノがガラルの都市部に設置されて注目を集めたのも数年前の話、今となってはあるのが当たり前の存在になって、逆に昔ほど注目されなくなったのが容易に想像つく。カラフルなスプレーでマーブル状にペイントされた見た目も、最初から装飾目的で塗られたのか、誰かの悪戯で落書きされたものかの区別もつかない。
「よく見つけたな、折角だし何か弾くか」
「良いのか?」
「今の俺はちょっと機嫌が良いからな、エリックの聴きたい曲なら弾ける範囲で弾いてやる」
軽く腕まくりしてトレヴァーが椅子に座った。その横で僕は音楽家の気の置けない友人よろしく、ピアノに寄りかかってトレヴァーを見下ろす。トレヴァーの奏でるピアノの音色も大好きだ、時に跳ねるように、時に流れるように聞こえてくる旋律に耳を傾けると、不思議と気持ちが落ち着いた。音楽に関してはアマチュアであるはずなのに心に響くのは、きっと一音一音に彼の魂を感じるからに違いない。或いは彼が炎タイプなので、その熱を音を通じて感じ取りやすくなるからか。
「今日見た映画の主題歌、て言ったら行ける?」
「テレビで何回か聴いてたし、多分弾けるはず」
そう言うな否や鍵盤に両手が置かれる。数秒程軽く試し弾きの時間があり、僕の心の準備が整ったと同時に軽やかな旋律が流れ始めた。正に今僕が聴きたがっていた曲だ、プログレ的な要素もありつつ、ジャジーな雰囲気も併せ持つ少し緊迫した曲調がどうしても頭から離れられなかったのである。そしておそらく、多分きっとトレヴァーも好きな曲。映画の感想を語り合った時にトレヴァーも主題歌の事を絶賛していただけじゃなく、今だってピアノに向き合う表情からは楽しさが滲み出ている。音楽を聴きながら僕の胸には多幸感と苦しさが押し寄せていた。体を預けているピアノに掴まり、五感の全てをトレヴァーと音楽に集中させる。トレヴァーが僕のために弾いてくれる、それだけじゃない、これは二人とも好きな曲だ、それを今共有できている喜び。普段何気なく話している時以上に心の距離感が縮まったようで、今なら心と心で会話できるんじゃないかとさえ思えてくる。
だが、それはあってはならない事だ。僕がトレヴァーに恋焦がれている感情は何よりも秘密にしておきたかった。今の良好な関係性がずっと続いている中で、僕が口にしてしまえば一瞬にしてそれが崩壊するのが目に見えている。願わくば関係を進展させたい、でもそうはならなかったら? 最悪の事態を考えただけで震えが止まらなくなる。だから結局、今のままで良い、今の関係が良いという心の言葉に従わざるを得ないのである。ああ、なぜここまで悩み抜く事になってしまったのか、改めて考えれば気が遠くなってくる。思った事を口に出しがちな性分な僕をここまで狂わせるなんて、彼は魔法使いは魔法使いでも呪術の類を使うタイプの男に違いない。
「あれ、ゴードルフさんじゃない?」
刹那、苦悩と幸せがシャボン玉のように弾ける感触がした。顔を上げ、周りを見渡せば小さな人だかりができており、この場が僕とトレヴァーだけの空間じゃない事実を鋭く突きつけられる。
「本当だ、こんなところでゴードルフさんに会えるなんて」
ゴードルフ、トレヴァーがあまり好きではないと語るファーストネームが耳に入るたびに現実に引き戻されていく。甘い夢にけたたましい音のサイレンが鳴り響くような、不快な感覚。
さっさと別な場所に行こう、と僕は口を開こうとした。だがその前にトレヴァーはピアノを弾くのをやめ、さっと立ち上がって人だかりに向かって右手をかざしていた。あの構えは見覚えがある、トレヴァーがバトルで炎を出す時の構えそのものじゃないか。
「トレヴァー……?」
帽子の隙間から見えた金色の瞳に続けようとした言葉が詰まった。警戒、怒り、狂気の詰まった殺気だった瞳をバトル以外で見たのは初めてだった。二人だけの賭け事に興じた時にもしなかった、ゾッとさせる視線、そしてトレヴァーから発せられる荒い息にその場が凍りついたように静まり返る。あまりにも嫌な沈黙に、脳が何とかしなければと語りかける。分かっている、なのに体が動かない。兄が癇癪を起こした時の対処法は知っているのに、それとは状況がまるで違う。どうする?動かない頭で必死に知恵を絞る。
その間がわずか数秒だと思い知らされ、体と口が動くようになったのはトレヴァーの表情がひどく青ざめたものに変わった瞬間からだった。後ろ手にバンと大きな音を立てて鍵盤蓋を閉めると、喉から絞り出したような声で呟く。
「ご、ごめんなさい……」
そしてその場から消えるのも一瞬だった。乱暴に人だかりを押し分け、顔を隠すようにその場から走り去る姿に僕は暫くきょとんとしていたが、頭が正常に働き始めてやっとすべき事に向けて体が動き始めた。
「待ってくれ! おい!」
人混みをかきわけ、全速力で走り去るトレヴァーの影を追いかけるのは容易ではなかった。それでも視界のトレヴァーを見落とさないよう必死になり、道中彼の落としたキャスケットを拾い上げ、息切れしながらもモトストークの街を走る。
「トレヴァー、戻ってきてくれ!」
ものの数分で自分がどこにいるのかすら把握できなくなっていた。工場地帯っぽい場所を抜けた気がするし、路地裏を通った気もする。少なくとも街らしい場所から離れていたのは確かだった。帽子に皺が残りそうなくらい強く握り締め、倉庫を横切り、鉄骨が剥き出しになった長く細い階段を延々と降りていく。全速力で走りすぎて喉からは鉄の味がし、体中が悲鳴を上げているのが伝わってきた。それでも彼に追いつくまではこの足を緩めるわけにはいかない。今のトレヴァーには僕がいなきゃ駄目なんだ。
「トレ、ヴァー……全く、探したぞ……」
ゲホゲホと咳き込みながら最後の一段を降りた先にトレヴァーはいた。高いレンガの壁と川に四方を囲まれ、周囲をたくさんの貨物が占領している狭い川辺を見回し、すぐに炎のような鮮やかな赤い髪が靡いているのを見つける。当然こんな場所にいるのは僕たちしかいない、息を整えてゆっくりと近づいても彼は逃げ出さなかった。貨物の一つに背中をもたれかけ、三角座りをするその横に片膝をつく。
「この僕をここまで酷い目に遭わせて、どうしてこんな場所まで逃げ込んだか教えてもらおうじゃないか?」
「分からない」ぽつりと発せられた声は意識を集中させてなければ聞き逃す程小さかった。「分からないんだ、俺がどうしてこうなったか」
その表情は悪夢に怯える幼子のようで、数時間前まで映画に目を輝かせていた男の面影はどこにもない。彼の言いたいことは大雑把ながら想像つく、僕がトレヴァーと同じ立場であれば更にパニック状態に陥り、駅の一角を客ごと氷漬けにしていただろうから。
「ごめん、何から話せば良いか、頭がぐちゃぐちゃで……」
「ゆっくりで良い、何なら話さなくても構わない」
こちらから訳を聞いた手前、結局どっちなんだと言われても構わなかったが、いつもなら突っ込みが来るはずのところに返ってきたのは弱々しい声だった。
「いや、話させてくれ」
トレヴァーは長い間言葉を選んでいるように見えた。おそらく、感情を整理する時間も兼ねているのだろうが、風の音しか聞こえない薄暗い空間で、その時間は途方もなく流れているように感じた。そうした沈黙が続いた後でトレヴァーが息をゆっくり吐き出す。
「俺は、確かに色々な人達に支えられて、この街の住民には恩義を感じている。でも今は放っといてほしかったんだ、ただの一般人として伸び伸びと歩いていたから……。俺は名も無き存在になる事はできないのか? それにあの曲は君だけに捧げたものだった。あんなオープンな場所で弾いてて何言ってるんだって話だけど……とにかく、何もかもをぶち壊されたって思ったら途端に頭が真っ白になって……」
「カッとなって炎を出そうとしたんだな?」
「俺は最低な奴だ。炎を出せなくて良かった、恩返しをしたいと思っている相手に対して最悪な事をやった訳だし、人前では常にクールでありたかったのに、もうおしまいだ、もう街中を歩く資格なんてない、俺は……」
「僕を見ろ」これ以上塞ぎ込むトレヴァーを見たくなかった。彼の右手首を掴み、驚きで見開かれた目の中を覗き込む。「僕といる時の君は何の肩書きもないトレヴァーという男だ、それだけは忘れないでくれ」
「でも、あんな事があった後じゃ」
「僕も周りを警戒してなくて悪かった。まだ君は不安定なままなのに、それを忘れてこんな目に遭わせてしまって……次あったら絶対に助ける、僕を信じてくれ」
目の前の金色の瞳が潤み始める。そこに映った僕の顔がぼやけるより前にトレヴァーが弱々しく首を横に振る。唇を噛み締めて、顔を少し歪めて。
「違う、俺が不用心だったからだ。エリックにも迷惑をかけてしまった」
きっとトレヴァーを知ったばかりの幼い僕が今の彼を目にすれば失望していただろう、完璧が服を着て歩いている存在に僕は嫉妬し、憧れを覚えていた。その頃から一人様々なプレッシャーに堪え、隙を見せないように振る舞っていただけだったと知っていれば幼い僕はどんな反応をしたかを想像してみる。今の彼はあの頃雑誌で眺めていた固い表情の少年よりも随分と魅力的に、愛おしく見える。
「君はいつだって努力しようと頑張っている。たまには自分を優先したって良い、周りが許さなくても僕が全部許す」
僕のシルエットが見えないくらい揺らいでいた瞳から、一筋の涙が頬を伝った。あっと声をかける間もなければ、その涙を受け止めようと手を伸ばす暇もなかったのは、すぐにトレヴァーが空いてた左腕で乱雑に目元を拭ったからだった。啜り泣く声はあげても慟哭までには至らず、暫くの間両目を抑え、その腕を下げた時には再び瞳の僕がはっきりと映し出されていた。
「ごめん、こんな事誰にも言われた事がなくて。もう平気だ」
目元に鮮明に残った涙の跡に突っ込む事が野暮なのは理解していたから、何も言わずに二人同時に立ち上がる。その時トレヴァーの右手首を掴み続けていた右手に気付いて慌てて離したが、すぐトレヴァーの右手がそこに収まった。
「重ね重ねになるけど、本当にエリックはこんな俺で良いのか?」トレヴァーの肩が僕の肩に軽く触れる。「こんなに取り乱すし、炎も出せないし」
そのまま階段へと向かい、一段目に足をかけたトレヴァーに咄嗟に持ってた帽子を被せる。早速僕はトレヴァーをファンの好奇の目から守ってやったのである、ついでにこの後眼鏡屋で安物でも良いからサングラスを買ってあげようとも心に決める。とは言えだ、穏やかな顔つきに戻ったトレヴァーにはこちらも心安らぐものがあった。笑いかけながら繋いだ手に力を込める。
「こんな君が良い。それに炎の事なら何とかなる、だって君の手はまだ温かいんだから」
トレヴァーが再び目を丸くした。頬に赤みがさしたのもあり、心に余裕が出てきた今見るとなんて可愛らしい表情なのだろうとキスしたくなってしまう。
「……エリック、ありがとう。その、君の手は不思議だな」階段を登りながら右手を繋ぎ返されて心臓が跳ね上がりそうになる。「冷たいのに温かい」
隣でくしゃっとした笑顔を見せる横顔に、跳ね上がった心臓がせり上がりそうになる感触を覚える。そう言えばさっきは目の前の事象に夢中で何も気にしていなかったが、僕は何をトレヴァーに言ったんだ? 「僕を信じろ」? 「周りが許さなくても僕が全部許す」? それに対するトレヴァーの反応は? 冷静に全てを思い返すと、恥ずかしさがぐわっと襲いかかってきて繋いだ手を半ば強引に離してしまった。これ以上はダメだ、意識しすぎてまたトレヴァーを危険な目に遭わせちゃいけないんだぞ。
「そ、そりゃあ僕にはウルガモスとマルヤクデの血が入っているからな! 当たり前だ」
アッハッハと晴れやかな笑い声が階段に響き渡った。「そうだったな、君は炎タイプの血を引いている」
大丈夫だ。根拠なんてないばかりか、まだトレヴァーの心が安定していない可能性だってあるけれど、それでもきっと、トレヴァーは大丈夫。トレヴァーに気付かれないよう、差し込み始めた夕日に僕はガッツポーズしてみせた。全ては僕が保証する。
トレヴァーにはただひたすら安寧と安らぎを享受してほしい──その一心で街を歩き回り、気が付けば駅前での出来事から万事が上手くいっている事に気付いた。立ち寄った眼鏡屋でトレヴァーにそこそこの価値のサングラスを贈った後も、目を光らせて周囲を警戒しながら歩いていたが、誰もトレヴァーを認識する事はなく、僕達は至って普通の通行人として街歩きを楽しめた。それで良い、僕の時間も全てトレヴァーに費やしたのだ、上手くいってもらわないと大いに困る。
楽器屋ではトレヴァーがギターの試し弾きをし、本屋ではお互いの積み本の冊数の話題に花を咲かせ(僕の方が多く積み上げていた)、花屋では何も知らないトレヴァーに僕が店頭に並ぶ花々の花言葉を教えた。そうして何気なく過ごす時間は僕からすれば至福の時間に思えたが、トレヴァーはどう思っているだろうか? 夕日が沈み始め、空がオレンジと紫の美しいグラデーションで彩られ始めた中、街の西側にある昇降機近くのベンチで休憩しながら、頭は今日の事をひたすら思い返していた。
周囲には僕とトレヴァー以外誰もいない、なので思い浮かべる光景に破顔を超えたひどい顔を浮かべても誰も何も言わなかった。年相応のあどけない表情で僕の手を引くトレヴァー、「これ、好きなんだ」と本や花を指差しながら口角を上げるトレヴァー……気を張っていた反動で肩は重く、頭も全然休めていないが、体の底から湧き上がる充実感と達成感はそれらを相殺できるくらいに大きな存在になろうとしていた。トレヴァーだって楽しかったに違いない、僕が側にいたんだからそれくらい当然だ。もし不満点があっても、まだ幾分残された余地で綺麗さっぱり消してやる。
大丈夫、何事も上手くいく。そう心で唱えた瞬間だった。とん、と肩と首筋に重みを感じて目線を横に向ければ、トレヴァーが僕に体を預けて今にも微睡の世界へと入り込みそうになっているところだった。トレヴァーの滑らかな髪と頭部の温かな感触が冷たい体を馬鹿みたいに沸騰させる。視界が白黒する程近すぎるくらいに密着して、動揺しない奴がいたらそれは欲というものを一切持たない奴だ。
「トレヴァー、起きてくれ頼む! 僕は君を担いで歩けないんだぞ」
加減が効かず、咄嗟に両肩を掴んでめちゃくちゃに揺り起こした衝撃でトレヴァーがかけていたサングラスが彼の膝へと滑り落ちた事に軽く謝罪の言葉を入れつつ、頭の中にいる冷静な方の僕はポケモンというものは反射的にここまで力を出せるのかと妙に落ち着き払っている。流石にこれでトレヴァーも半開きの眼を何とか開けつつ、現実に再び戻れたようだった。
「ああ……悪い」ふあ、と欠伸と共に間伸びした声が返ってくる。「嫌だったよな、いきなり体を傾けてしまって」
そして瞼を擦るトレヴァーは今までになく無防備で、隙だらけな姿だった。いや、言い換えるなら「安心しきった姿」だ。養子に来ばかりの時は里親の顔色を伺ってばかりだった孤児が少しずつ里親を信頼するようになり、リビングのど真ん中で体を丸めて眠れるようになったくらいの、そんな気の抜け方をトレヴァーがするなんて想像つかなかった。ここまで僕に心を許す仕草を見せられると、これは寝ぼけているからだと結論づけたくなる、夢と現が曖昧だから、ふわふわしているだけなのだ。「僕に弱みを見せて良いのか?」と問いただしたところでまともな答えは返ってこない、だから先程からのこの動悸はただの誤反応だ。
「疲れているならそろそろ帰ろうか? 洗濯してないけど、僕のホテルまで服を取りに行っても良い」
「んんん」今日一日であらゆる事が起こりすぎて、流石のトレヴァーも疲労を隠せないでいるのは明らかだった。それでも気力を振り絞り、サングラスをズボンにしまうと伸びをしてこちらに顔を向けてくれた。「まだ歩ける、服を取りに行くのは最後にするとして、そろそろパブへ行ってみないか」
「パブ? 今の時間帯のパブって客多い場所だし、行っても平気か?」
「平気な場所がある。俺はこの街を大体知り尽くしているんだぞ、穴場の店も把握している」
自信満々に言われては何も言う事はない。いや、どんな場所かと訊ねることは出来たのでそう口にしたところ、野菜料理が大変美味しく、特に葉野菜を使ったサラダやスープが絶品だと弾んだ声が返ってきた。
「エリック、葉野菜が好きだって言ってただろう……今日一日、本当に感謝という言葉じゃ表せないくらい色々してもらったから、その礼をしたいんだ。駄目か?」
「そ、そんなの……」困り眉に加えてきらきらした金色の瞳を向けられたら首を横になんて振れない。「駄目じゃないに決まってる! さあ行くぞ、案内してくれ」
今が夕方で良かった、紅潮した顔を夕日のせいだと言い張れる。それでも何となく顔を覗き込まれるのが嫌でトレヴァーの方を見ずに立ち上がった。のんびり目の前の川を眺めながら上着を払い、伸びをする時もトレヴァーの方は見ていない。そのため夕日を受けてノスタルジックなオレンジに染まる川の美しさに感嘆の声を漏らす程度に一瞬、本当に一瞬だけトレヴァーから意識を逸らしていた時間が生じた。
「くしゅん!」
不意に風が吹き、横でくしゃみの声がする。普段の僕ならサッと振り返って音の正体を突き止められたのだが、僅かに遅く反応したのはそんな理由からだ。振り返って首を傾げる、まだベンチに座っていたトレヴァーは目の前で高度な手品を見せられたような表情で固まっていたのだ。体はわなわなと震え、口は中途半端に開いたままで、やや滑稽な姿に見える。
「い、今口から火の粉が……」
「何だって?」本当かい、と言いかけた言葉を飲み込んでトレヴァーの視線の先、川と陸地の境界線に目を移す。
「この目で見た、確かにパッと燃えたんだ。嘘だと思うなら見せてやる」
トレヴァーはやおら立ち上がると、右の掌を空に向け目を閉じた。無理しなくて良いからな、と呟いたのは炎が出せないと泣きじゃくる姿を思い出したからだ。これでいつものトレヴァーに戻ってくれれば嬉しいが、話を聞いた限りたった一日で戻るものとは思えない、もし炎が見えたらパブで飲み物を数杯奢ってやろう。そこまで考えたところでトレヴァーの右の掌から赤々と煌めく光と熱が見えて、僕は財布の残額がどれだけあったか、こんな時のためにクレジットカードがあるんじゃないかと考える羽目になった。紛れもなく、彼の力が戻っている証拠に言葉が出なくなる。炎、そうだ、彼は魔法も使えないと言っていた。
「もしかして、おい、魔法も使えるんじゃ? 試しに炎に細工してみろよ」
トレヴァーは目を閉じたまま炎を周囲に散らし、小さな炎の渦を作ってみせた。その色は最初は黄色に変わったかと思えば緑に変わり、紫に変わったところでふっと消滅した。魔法でエーテルを元素に変え、炎色反応で炎の色を変えているのだ。彼の十八番の芸に僕の瞳も輝きが伝染しそうになる。
「トレヴァー、君……」
「戻ったんだ!」川辺にトレヴァーの大声が響き渡った。「俺、また今までみたいに……!」
今までで聞いた中で一番じゃないかと思うくらいの声量だった。いや、そもそも喜びを全身で表現している姿を見ることすら初めてなのだ。嬉しい事があればニッと顔を綻ばせる程度の彼が、声にならない声をあげながら目の前に差し出した両の拳を握りしめて感慨に浸っている。そうだ、と改めて思い出す。彼は僕より年下の、青年と少年の狭間くらいの年頃の男なのだ。
嬉しさ余ってかトレヴァーは僕たちしかいない空間で軽いステップを刻み出す。そのまま周囲に炎の渦を作り出し、先ほどよりも輪の大きさを増幅させていく、彼にしか聞こえない音楽に導かれるように。歓喜に満ちたワンマンショーは、即興故に動きは洗練されているとは言えないが、何故だか心に響くものがあった。感情が伝わってくる、嬉しい、楽しい──! それに僕の心だって踊らない訳がない、気付けば足は勝手に動き出し、トレヴァーの元へ駆け寄ろうとしていた。炎の渦の中心にいる相手の元へ? そう、僕は完全に炎が見えなくなっていたので、トレヴァーに触れられるところまで近づいたところで、危うく触覚と髪を焦がしかけて我に返った。トレヴァーもまた自分の世界から帰還し、その瞬間に炎の渦は跡形もなく、一瞬にして消えた。
「ごめん、火傷してないか?」
「全然。それより凄いじゃないか……」
「ああ!」僕の発した「か」とトレヴァーの返事が重なった。「君のお陰だ、君がいたから、俺は……!」
完全に油断していた。右手を柔らかく温かい感触に包まれ、視線を前に向けばトレヴァーが僕の手を取ったまま感極まった眼差しを送っている光景に、僕は一瞬これが夢なんじゃないかと思う。まだ言葉が出ない、当たり前の事をしたまでだから礼を言われるのは慣れているが、相手はトレヴァーだ、これで脈があるなんて曲解しないように振る舞わねば。
「こういう時は泣くんじゃなくて笑いな」
「泣いてなんかないさ、流石にもうあんな姿を見せるわけにはいかない。それより、本当にエリックのお陰なんだ」
「僕の?」
「技や魔法は、なるべく楽しい事を考えて出すようにしている。その方が安定するからさ、君だってポケモンなら分かるはずだ。だから今日の事とか、エリックの顔を思い出しながら念じたんだ。ありがとう、気持ちが楽になった」
自分を殴りたくなる衝動を抑えながら深く息を吸う。揺れる瞳を向けているにしてもトレヴァーはあくまで僕を親友としか見ていない、今は友情以外を考えないようにするんだ、そうでなければ僕は今、この場で炎が凍りつくまでありったけのハグを送っていたかもしれないから。
僕こそクールであるべきだ、勿論物理的じゃない方のと目を瞬かせて咳払いする。「と、当然だ! 僕が背中を押してやったんだからな!」
できればクールダウンする時間が欲しかった、もっとダイレクトに言うなら「逃げ出したかった」。確かに一番良いのは友達以上から想い合う関係になる事だ、だが僕の理想にトレヴァーがついていけるかどうかなんて全然分からないのだ。でも、もしこれがきっかけになってしまえば? 脳内が混沌に満ちてくる、結局何をしたいのか、トレヴァーに何を求めているか僕自身も分からなくなってきて、握られた手をそっと解く。
「全く、僕を心配させて。これでまたしょぼくれたら背中を蹴り飛ばしてやる」
「その必要はない」いつものトレヴァーが戻り始めていた。「やる事は見えた、この後どうするかはとりあえずグロリアと相談して決めるとして、ショーの当日までは気負わずに過ごすよ」
拳を握りしめる姿に安堵の声が漏れる。僕のよく知っているトレヴァーだ、あまりにも見慣れすぎていてため息が出る程魅力に溢れている。
「本当に平気か? 何かあれば僕を呼んでも構わないからな。ショーの日までこの街にいるんだから」
いつものトレヴァーの顔に驚きと不安が乗る。こうもあっさりと素が出てしまったのはまだ心身が不安定だからか、僕に心を許しているからか。ほんの数秒の沈黙と共に、おずおずとトレヴァーが口を開いた。
「もし明日、君に会いたいと言っても?」
「僕が力になれるならな!」
僕もようやく普段の自分が戻りつつあった。改めて疑いようのない本心を伝えて笑ってみせる。僕自身がトレヴァーの代わりにはなれないが、話を聞いて寄り添う事くらいならできる。君のためなら喜んでこの身を捧げるつもりだ、本当はそんな言葉も伝えたかったがほんの少しの勇気不足と妙な空気になるであろう予測が口を閉ざす鎖となってくれた。
「俺はやってみせる、俺のショーを心待ちにしている皆のために。勿論君の事だって何一つ忘れない。君は俺の炎を再び点けてくれた」
氷タイプに言うのはおかしいけれど、そう続けてはにかむ彼に、改めて僕の血にウルガモスとマルヤクデが混ざっている事を熱弁しようとして息を呑んだ。
今まで色々な表情を見せるトレヴァーを見てきたが、こんなに清々しくて神々しくて、美しい彼を見たことがなかった。沈む夕日が逆光になり、トレヴァーの炎のような髪と輪郭を怪しくもロマンティックに浮かび上がらせている構図。それに今日一、いや今までにない屈託のない笑顔を浮かべられたら、彼に興味を持たない相手ですらドキリとさせてしまいそうで、その事を想像して僕はギリっと歯を噛む。今この瞬間だけは誰にも奪われたくない、僕とトレヴァーだけのものであってほしい。
「ずるいじゃないか、そんな顔をされたら」
トレヴァーに聞こえないように漏れ出る思いを呟く。今日だけで心の距離が縮まった気がする。それでもまだ秘めた思いを伝える度胸はなくて、歯痒い感情を抱えているが、今は関係性の進展ほか一切の悩みをを深く考えたくなかった。川辺に僕がいて、トレヴァーがいて、かけがえのない時間がゆっくり流れていて。この後パブに行く予定も、明日のこともショーの当日についても、全てがオレンジを飲み込まんとする紫色の空に溶けていく。夕日がこのまま止まってくれたらどれだけ良いだろう、永遠と言わずとも、この瞬間をもう少し享受していたい。これが幸せである事をトレヴァーは教えてくれた。
「そうだ、ショーの日に君がいるなら、どの辺りに座るか教えてほしい」
「何で急に?」
「……不安になった時にそこを向けば安心できそうな気がして」
無情にも夕日は川面に消えていき、トレヴァーは未来の事を口にする。僅かな残光を背負ってもなお輝きの消えない立ち姿から放たれた予想外の一言は、全身の血液を逆流させるには十分な内容だった。
「そ、そんなに僕が見たいならいくらでも見るが良いさ!」
「そう言ってくれるなら心強い」
僕がチケットの座席番号を読み上げた時、トレヴァーが川縁を軽やかに歩き始めた。スキップでもするかのような足取りに暫く心を奪われ、体の全てがトレヴァーの足元に集中していたが、それがパブへと行く動作だと気付いた瞬間焦りが湧き上がる。
「さっ、パブへ行くぞ。今日は俺が奢ってやる」
「待ってくれ、君の日だぞ、夕飯くらい僕に奢らせてくれ」
数歩先を行く後ろ姿に追いつき、その横に当たり前のように並ぶ。掛け直したサングラス越しに微笑むトレヴァーはすっかり公に見せるよそ行きの顔つきになっており、永遠であってほしかった時間の崩れる音を耳にした。それでも溢れる幸せは止まらず、雑踏が目立ち始めた街中に入りながら僕は絶対に夕飯を奢ってやるといつもより強情を張って見せる。
「僕との時間を目一杯楽しみたいなら、何も考えず僕に任せてくれ」
「君と俺じゃ財力が違う、それくらい分かるだろう」
「でも年齢は僕の方が上だ」
持ち前の負けず嫌いを発揮したか、付き始めた電灯の淡い光の下でトレヴァーが眉を顰めれば、反射的に腰を小突きたくなる。細い階段を上る時には根拠なんてなかった「大丈夫」の言葉に確かな信憑性が生まれるのを感じながら、反論する口にはつい笑みが浮かんでしまう。
果たしてどちらが折れるのが先か。場所の知らないパブまでの道で繰り広げられる攻防は、もう少し続きそうな気配が漂っていた。
(2024.6)
泣くトレヴァーとエリックの「僕を見ろ」という台詞が書きたいという一心で生まれたちょっと長い話でした。