彼の完璧じゃない午後

「トレヴァー、水が飲みたいんだけど」
「そうか」
 口ではそう言いつつも、彼が僕の右腕に強くしがみついている両腕の力が緩む事はない。ベッドの上で壁にもたれかかりつつも体をどこまでも僕に密着させ、顔は俯きがちで、炎のような髪をこちらに差し出すような体勢をトレヴァーは最低でも30分は続けている。目の前のテレビで30分枠の深夜番組の再放送が終わったのを見たのでこれは確実だ。
 『キルクスの近くいるから君の家にも寄りたい』と電話で言われた時は、まだ受話器越しの声は穏やかで普段通りに感じたし、家に来て母親や姉と難なくやり取りしている姿も至って紳士的で、僕の部屋に着くなりふうっと息をついて僕のベッドに倒れ込んで動かなくなり、時折短い唸り声をあげるマルヤクデと化すとは誰も予想だにしなかっただろう。
 彼は完璧だ。生まれついた時から大きな町を治める器たる存在として育てられた影響で、少なくともゴシップに致命的な情報を載せられた事はない振る舞いをしている上、彼を知る者からの評判も良い。そんなトレヴァーが今、完璧を投げ捨てて駄々をこねているのだ。他人には決して見せない姿を僕だけに見せているところには優越感を感じてしまい、ゾクゾクとするのだが、問題はこれが長続きすることだ。
「頼むよ、可愛いトレヴァー。僕は喉が渇いたんだ、使用人を呼ぶくらいの時間なら離れても良いだろう?」
 華やかでフローラルな匂いの赤い髪を撫でながら、あやすように話しかけると「むう」と短い唸り声と共に右腕にかかる力が一層強まる。喉が渇いているのは本心からだ、使用人を呼ぶベルを数メートル離れた先の定位置の机ではなく、今だけヘッドボードに置くべきだったと後悔しながら目の前の甘えん坊をどうしようか頭を巡らせる。
「数秒だけでもこれを抱きかかえてくれないか?」枕元にあった大きめなぬいぐるみを手に取る。
「巨大なナマコブシを? それは君の代わりになるのか?」
「レタスだよ、何度も言ってるんだから名前くらい覚えてくれ。君じゃなかったら今頃吹雪を浴びせて引き剥がしていたところだぞ」
「でも俺は君より力が強いし、ほのおタイプだから吹雪にも動じない」
「それが問題なんだ」
 少しだけ顔を上げたトレヴァーの顔が若干のしたり顔を見せている事に少し腹が立つが、やや心が緩んだ事で僕にしがみつく腕の力が弱まったのを見逃すわけがなく、その一瞬に僕は『みがわり』を使うがごとくトレヴァーの腕にレタスをしがみつかせ、ベルを読んで使用人に水(トレヴァーの分も含めて)を持って来させることに成功する。
 ややあって使用人が水を持ってきたところで、やっと砂漠と化していた口の中は潤いに満たされ、トレヴァーに向き合える余裕も少し出てきた。空になったグラスをヘッドボードの上に置くと再びベッドの上に座り、もう一つの水が入ったグラスをトレヴァーに差し出す。
「君も飲め、少しは落ち着くぞ」
「……エリックが言うなら」
 トレヴァーの横に座り直すと、待ってましたとばかりにトレヴァーがレタスを脇に置いて頭を僕の肩の上に乗せてくる。少しばかりは僕の代わりになってくれたレタスに感謝しつつ水を渡すと、ものの数秒で空になったグラスが僕の手によこされ、そのまま僕はもう一つのグラスの横に置く。悩みがある時はまず腹を満たす事が先決だ、とは今まで読んだ本でなんとなく身につけた知識だ。その知識通りトレヴァーは先程よりも落ち着きを見せ始めているように見えた。完全に不機嫌さが消えた訳ではない、だが話を聞くなら今だ。
「トレヴァー、何があった?」
「少し疲れた」トレヴァーが再び両腕を絡ませてくる。「俺の事がどれだけ好きか、態度で示してくれ」
「今まで散々甘えさせて、水を飲ませた上で?」
「まだ足りない」
 刹那、上目遣いにこちらを見上げるトレヴァーの金色の目と僕の目が合い、我儘な奴めと悪態をつきそうになった言葉はヒュッと喉に詰まる。トレヴァーは何を求めている? 貪欲だが、憂を帯びた瞳は明らかに僕だけしか見ていない。このまま押し倒して抱き潰しても良い、でもここは僕の家というリスキーな場所で、互いにそういう気じゃないのは伝わる。今の彼に必要なものは精神的な繋がりだ。すると不意にいつぞやの技も魔法も使えなくなって泣きはらすトレヴァーの顔が脳裏をよぎり、反射的に僕はトレヴァーを抱きしめていた。そのまま頬にキスをし、片手で彼の背中をさすってやる。
「ああ、そうだ、これがいい」
 このまま彼が泣くならそれも受け止めるつもりでいたが、ふーっと息を吐き、顔を僕の胸に埋めるだけにとどまった。恐らく、予想以上にひどい話ではない。それでも僕が必要なのは確かだとここで確信する。君が僕を感じていたいなら喜んで僕の胸を貸す。その代わり僕もこうして君を感じていたい。そう考えても良いだろう、だって僕たちはいつだって互いを求め合っている。

 

「なるほど、スランプが一週間続いていると」
「気軽に言ってくれるな、こっちはそれで苦しんでいるというのに」
「僕だって何度もあったさ、でもその度に抜け出せた。君だってうまくいく」
 やっとトレヴァーが口を開いた時、目の前のテレビに映し出された時刻は互いに水を飲んでから一時間は経過している事を示していた。日没前ならまだ許容範囲だ、いや日が沈んでからも僕としてはトレヴァーにいてほしいし、トレヴァーも同じ気持ちだろう。このまま明日の朝まで一緒に眠りに落ちるのも本望だ。
「体が思うように動かないし、表現がマンネリ化している気がする。だがこれ以上のパフォーマンスも思いつかなくて……」
「それで一週間経っていたんだな」
「終わりだ」
 ベッドの上でトレヴァーが膝を抱える。幼少の頃から自分を抱きしめてやり過ごしてきたという姿を見ると、彼にこそふわふわで愛くるしいぬいぐるみが必要だという考えが過るのだが、依然としていらないと突っ返されるのが今も続いている。ナマコブシのレタスがどれだけ僕の心を癒したかこの場で語りたくなる気持ちを抑えてそっと寄り添う。
「で、一週間の間どう過ごしてきたんだ?」
「最初の数日はスランプである事が信じられなかった。ちょっと何かに躓いたくらいに考えてて……でもその後スランプだと認めざるを得なくなって、そこからはもがき続ける日々さ。必要な事は色々試した、師匠のグリさんに相談したり、休養日を入れてみたり、他にもまあいくつか。そして気付けば今日になっていた」
「僕の家に寄りたいって電話は数日前だったよな? その頃からなってたって事か?」
「俺は」膝を抱えたままでいたトレヴァーは無造作に指を動かし続けた後で、少しだけ視線をこちらに向ける。「君に会いたかったんだと思う」
「『思う』? 僕に会って甘えたくて頼りたくて仕方なかったように見えたんだけど?」
「分かった、訂正するよ。色々試した後で君の顔が浮かんだ。幸いホテルがキルクスの近くだったからアポを取って、存分に愛されたかった。もう今の俺を元気づけてくれるのは君しかいなかったから」
 その言葉が聞きたかった。頼る事が苦手で、いつも一人で頑張ろうとする彼を見るのが歯痒くて、僕は常々彼に、僕を頼るようにと言っている。それを律儀に遂行してくれただけで嬉しくなる。
「君はうまくやっている」
 両手でトレヴァーの柔らかい手を取る。僕は彼の温かい手が好きだ。僕にないものへの執着心なのはそうだが、そこから感じる命の鼓動にどうしようもなく惹かれる。
「スランプを受け入れた上で最善の行動ができているんだから、そう遠くないうち抜け出せるさ」
「でも状況は何も変わっていない」
「いいや」手を握る力を少しだけ強めると、一層熱が手のひらに伝わってくる。「よく思い返してみな、絶対何かは変わっている。僕を信じられないのか?」
「それは……」
 トレヴァーが困惑の表情を浮かべたままじっと握られた手を見つめる。トレヴァーも僕の冷たい手を好きだと言ってくれている。冷たさがエリックという存在を認識できるからだと理由を聞いた時、僕達は考えている事が同じだと目を細めたのを覚えている。炎と氷、属性は相反するが虫の種族は同じだし、心の底でも繋がっているのかもしれない。
 トレヴァーは記憶を呼び起こしながら、言葉を選んでいるように見えた。互いの冷熱が相殺して同じ温度に変化しようとした時に、やっと彼が顔を上げる。
「心持ち……? 君には謎の説得力があるというか、多分怪しげな壺を高値で売られても買ってしまいそうな魅力があるというか」
「何だそれ」
「つまりだ、その」トレヴァーが顔を紅潮させながらにっと微笑む。「そこまで悲観的に考えなくても良いかなと思えるようになった」
「トレヴァー!」
 心よりも先に体がトレヴァーに飛びついていた。先程の優しいものではなく、歓喜からくる荒っぽい抱きしめ方で、乱暴に首に腕を回す。
「やめろやめろ、怪我でもしたらエリックは俺のファンやグリさんから報復を受けるぞ」
「悪い、でもほら、少しは前向きな方には変わっているだろ?」
「そうだな」トレヴァーが僕の腰に手を回す。「君がいて良かった。話を聞いてくれて……受け止めてくれてありがとう」
 ああ、と声にならないため息が漏れる。きっとトレヴァーは立ち直って、次に舞台に上がる時は何事も無かったかのようにパフォーマンスを見せてくれるだろう。弱気なトレヴァーも愛しているが、やっぱり思わず日光のように目を逸らしたくなる程の笑顔を見せる彼が一番好きだ。

 

 日没までにはまだ時間がある。トレヴァーが帰る間、僕はトレヴァーの好きな音楽をかけてやり、ギターがどうの、歌詞がこうのとベッドに寝転んで素人目線で評論し合っていたが、CDのプレイリストが終盤に差し掛かった時にトレヴァーが僕の上着の裾を控えめに引っ張った。
「今更だけど、いきなり家に来て好き放題して迷惑じゃなかったか?」
「本当に今更な話だな!」
 根が真面目でしっかりしたトレヴァーらしい問いかけに、つい吹き出してしまう。トレヴァーにとっては僕相手でも見苦しい姿を見せることにまだ申し訳なさがあるようだった。そう、今更だ。本人の意図はともかくとして既に彼の弱気な部分、負けず嫌いすぎる部分、その他嫌な部分をたくさん見てきて、その上で愛しているのだから僕の前では図太く振る舞ってほしいものなのに。彼も内心ではそうしたいのだろうが、まだ理性が邪魔しているように感じた。
「僕の前では君らしくあってくれ、どんな君も僕は嫌ったりしない」トレヴァーの口が「本当か?」と返す前に先手を打つ。「そうしたところで僕の愛は揺るがないって分かっていなかったら、水を飲みたい僕を引き止めたりはしない。違うか?」
「あれは本当に悪かった。でも君が離れるのが嫌で……」
 トレヴァーが身を起こすと、相変わらず寝転んでいる僕にさっと影が差す。ゆらめく炎のような髪がカーテンのように顔を覆い尽くし、その瞬間に僕はトレヴァーのアンティークでボタニカルな匂いと、唇に優しい温かさを数秒感じた。
「改めて、君は僕の最高の恋人だ。感謝してもし足りない」
 まどろみの最中に見る幻覚だと思った。一瞬何が起こったのか分からず、目を瞬く間に唇の熱や影は消え、目の前には見慣れた天井が広がる。だが鼻腔に残った彼の匂いは幻じゃない事を主張していた。慌ててトレヴァーの方を向くと、トレヴァーはベッドから降りて部屋を出ようとしている。
「ちょっとトイレを借りるよ」
 そう言い残してトレヴァーが扉の向こうに消える。控えめに扉が閉まる音が耳に入り、後には沈黙したCDプレイヤーとCDをかける時に消したテレビの無音、高鳴る心臓の音だけが残る。
 きっと彼が図太く振る舞ってくれるのも時間の問題だ。僕としてもトレヴァーに立場も生まれもかなぐり捨てて伸び伸びとしてほしいと思っている。だけど全てを解き放った時、今度は僕が耐えられるだろうか? トレヴァーの匂いは薄れていたが、記憶が鮮明に嗅覚に訴えている。
「最後の最後に、ずるい奴」
 僕も君が最高で最愛の相手だ。我儘さえも愛おしくて、かわいい。きっと僕はまだまだトレヴァーの好きな一面をたくさん拝めるのだろう。今日みたいな日のように。そう考えただけで幸せが止まらなくなり、トレヴァーが帰ってくる時間が待ち遠しすぎてレタスを抱えると衝動的にやわらかな黒い布地に顔を押し付けた。


(2025/7)
CP時間軸のエリトレ。Xで見かけた「俺/私のことどれだけ好きか、行動/態度で示してほしい」というシチュエーションから話を膨らませて一発書きしました。
既に愛されていると自覚しているトレヴァーだから、弱っている時こそエリックを一層求めるんじゃないかと思います。そしてエリックの前では弱さを曝け出せるトレヴァーという構図は良すぎていくらでも見たい。
あと少しだけ昔書いた話ともリンクしているけど、本当にエッセンス程度です。