果てが見えない深淵を、只々ひたすら歩いていた。
周囲は漆黒、闇としか言い表せない黒塗りだけの空間で、そもそも果てがあるのかすら分からない。入口も出口も見当たらず、視覚的な情報は皆無に等しかった。
こわい、さびしい。無意識に押し寄せる恐怖心で心が押し潰されそうになり、胸の鼓動が不気味なまでに早くなる。元々寂しがりな性質だが、どこともつかない謎の場所に一人で取り残されては、どんなポケモンだって心細くなるに決まっている。
その上闇を一歩一歩進む足は徐々に冷たさを帯び始め、何度か立ち止まって咳き込むほど息苦しさも増している。まるで冷たい海の中を永遠に泳ぎ続けているような感覚にアルベールは思わず身震いする。
早くここから抜け出したかった。黒だけの何もないところにいると、このまま闇に取り込まれそうな気もして。だから先程からおぼろげに聞こえる声を光と信じ、それに従おうと足を踏み出す。
『東へ200歩、南に363歩』
コンパスなんて都合よく持ち合わせていないので、声が聞こえてきた時に向いていた場所を北という事にしてその通りに歩いていた。歩数計もないので心の中で忘れないようにカウントしながら歩を進めていたが、それがかえって寂しさを紛らわせる事になっていたのは有難い。その声が地獄への道筋だったとしても構わなかった。とにかく、今いる場所から抜け出せればどこへ通じていても良い。
『南に363歩、東に722歩』
あどけない少年の声に導かれながら尚も歩き続ける。歩き続けて足先は既に痛みや痺れどころか、感覚を感じなくなっていた。息苦しさはある時から悪化はしなくなったが、それでもこの終わりが見えない孤独を考えると冷たい海を泳いでいるビジョンがよりくっきりしてくる。両足に錘をつけた姿で。
深淵の中で苦しい、と呟いた言葉は自分の耳に入る前に闇へ消えていった。寂しいと漏らした声も、声帯の震えがあるだけで、本当に自分がそう言ったのかすら把握できない。徐々に五感が消えていく気がして、突如寒気が背中を過った。
そうだ、この感覚は故郷の村の領主に錬金術の事で詰め寄られ、投獄された時に似ている。思い出すだけでも戦慄する事をされ続け、それでも夜な夜な脱走しようと痛む体を引きずって鉄格子にアシッドボムを打ち続けていた日々だ。あの時は生命力が尽きかけようとも、鉄格子から見える景色の先へと行こうと必死だった。その執念は叶ったのだ、今回だってきっと、どうにかなる。
そう考えた瞬間寂しさと苦しさしかなかった体に力がみなぎり、その時だけアルベールはいつもの頑丈さと強さが戻ったように小走りになってみた。まだ足は動く、まだ声は聞こえる。希望は潰えていない。
『東に722歩、西に18歩』
程なくして活力は急激に萎んだ。いくら歩いても黒一色の空間で、微かな光さえ見えてこない。今まで動いていた足も徐々に動きが鈍り、歩くという動作すら億劫になってきた。
そもそもなぜ歩いているのかも分からなくなってきた。たまたま聞こえてきた声に従うしかなかったと言われればそれまでだが、途方もない時間歩き続けても何一つ状況が変わらないのだ。文字通り闇雲に歩き続けて体力も消耗している。限界の二文字が脳裏に鮮明に浮かんでいた。
無理だ、と深淵に吐き出してその場に崩れるように倒れ込んだ。東に歩き続けているカウント数は覚えているが、それを記憶したところで何になる? このまま俺も黒に飲まれてしまうかもしれないのに? 横たえた体は本当に闇と一体化しそうなくらい重たかった。もう、ここで終わっても良い。さっさと楽になりたい。
「嫌だ」
無意識に唇が動いていた。心は現状に諦めているが、頭がそれに抗っている。ここで終わりたくない、消えたくない、生き続けたい。満身創痍でもまだ思考力が残っているのは幸か不幸か、しかし考えることができると分かった瞬間に頭の中ではこれまでの思い出が走馬灯のように駆け巡り始める。
特に鮮明なのはここ数年の記憶だ。ミアレに流れ着き、とある家に転がり込んでからの思い出。妹のような存在に勉強を教え、一緒にクッキーを食べるビジョン、そして今覆い尽くそうとしてる闇より少し明るい髪と、息を呑むほど美しい翡翠色の瞳。彼女の姿を思い出そうとして四肢に力を入れる。彼女は光のようで、助け合える存在で──。
「会いたい」
消え入りそうな声が闇に響いた。その声だけ闇を越えた先へ飛び出していったかのように。相変わらずどこかへ導く声も聞こえるが、今のアルベールの頭には翡翠色の瞳しかなかった。会いたい。会わなきゃいけない、運命だと思い始めていた。彼女の事を考えると不思議と心身が温かくなり、熱を帯びる。それが冷えた体に心地よく染み渡り、気付けば心の中に巣食っていた諦めの気持ちは少しずつ熱に押し出されそうになっていた。
行かなきゃ、と上体を起こす。そのまま手で体を支えながらゆっくり立ち上がってみると、相変わらず体は重いが再び足は動かせるようになっていた。まだ行ける。ここで立ち止まったままでは終われない。
「大丈夫」
アルベールが再び歩数を数えながら一歩踏み出した時、頭の中に馴染みある柔らかな声が反響した。その優しさに思わず胸が高鳴り、一瞬カウントを忘れかけそうになるのをいやいやと頭を振って確認し直す。足を踏み出すと同時に右手を前に振れば、その手が一層温かい事にも気付いた。もう一人じゃなかった。体中が温かくて、孤独感は闇の彼方へ飛んでしまった。
その後気力を振り絞って東に722、西に18数えて歩くのは今までより足取りが軽やかだった。着いた場所には何もなかったが、そこで自分が何をすべきなのか、アルベールは心で感じ始めていた。
「大丈夫、だから」
再び自身を奮い立たせてくれる声が頭に響く。その声をよりはっきりと、輪郭が見えるまで思い浮かべる。輪郭はやがて影となり、影は像となる。ああ、と唸る。この光景こそ今俺が一番見たいものだ。黒いだけのつまらないものより何億倍も素晴らしい。
翡翠色の瞳と目が合った時、アルベールは右手を握りしめた。この手を離さないように、この手が自分を闇から引き上げてくれる事を強く願って。
目を開いた時、視界に飛び込んだのは心配そうに見下ろすルネの顔だった。その奥に見える見慣れた自室の天井に安堵の笑みが漏れる。
「……なあ、どれだけ寝ていた?」
「丸一日。そろそろ日も沈むわ」
そうか、と半身を起こそうとしてグラリとバランスを崩す。そこをまだ寝てなさいと目の前の彼女に支えられて少しずつ現実を思い出していく。数日前に流行病で倒れてからの夢と現実を曖昧に行き来する苦しみの中で、ルネは率先して看病してくれたのだ。嫌な微睡の中でも氷のうを取り替えたり、汗を拭いてくれた感覚はうっすら記憶している。
再びベッドに身を沈めながら、アルベールはふとベッドサイドに置かれたラジオの音声を耳にする。そこで繰り広げられていたのは児童向けの冒険小説のラジオドラマで、少年たちが地図を頼りに山奥で東へ何歩、西へ何歩と確かめながら歩いていた。
「随分とうなされてたから、心配だったのよ」
普段は強気な態度のルネも、今日ばかりはいつもの余裕が薄れているのが伝わってきて、思わずアルベールはごめんと口にする。雨の日に外に出るたび「風邪ひいても看病しないから」と送ってくれる彼女が見せる非日常には、微かな優越感と共になんとなく居心地の悪さも感じてしまう。
「……ひどい夢を見たんだ。もう内容は忘れたけど」
「そう、忘れたなら良いけど」
「ああ、でも言う程ひどくはなかった、かも」
ここまで真剣な彼女の瞳を見たのはいつ以来だろう、バトルで相手に向けるものとは違う、慈愛のこもった視線に体中が熱くなる。これは病気の熱か、或いは。
「多分ルネさんがいたからだ。ありがとう」
きっとこれも熱に浮かされた妄言だ。病気で意識が曖昧だから、という事にしてしまおう。夜が深まる様子を見せまいとするようにカーテンを閉じるルネをちらと見ると、彼女は一瞬だけきょとんとした表情をしていたように見えた。だがアルベールが瞬きするとその顔はアルベールに見せる強気な、それでいてまだ非日常を感じるものに変わっていた。
「そんな事言われても、わたしは何もしてないから」
「でも側にいてくれただろう?」
「それは、貴方の顔色があまりに悪くて……」
いつものツンとした態度なのに、どこか収まりの悪いルネにアルベールは目を細める。夢の内容は殆ど忘れていたが、僅かに、確かに覚えている事がある。柔らかく響き渡る声、右手に添えてくれた温もり。彼女が否定したとしても、アルベールが覚えていればそれで十分だった。
「そ、それより喉が渇いたでしょう、今水を持ってくるからおとなしくしてなさい」
アルベールの返答を聞かないまま部屋を飛び出したルネを目で追いかけると、ゆっくりアルベールは布団に潜り込む。過去に何かあったらしい彼女に正面から言うことは出来ない言葉を唱えると、息苦しさが少し落ち着いた気がした。
「愛してる」
毛布と掛け布団にくるまると、起きたばかりなのに瞼が重くなってくる。水も飲みたいが、もう少し眠りたい気持ちもある。その上でルネへの想いも募るばかりで悩ましい心を抱えながらも徐々に考える事が面倒になり、遂にアルベールは思考を放棄するに至った。
意識を手放す前にアルベールの耳に入ったのは、ラジオドラマで少年たちが冒険の末に財宝を手に入れて歓喜の声をあげる、ノイズ混じりながらハッピーエンドにふさわしい場面だった。
(2026.1)
夢の世界でのアルベールと看病する咲弥さん(ルネ)のヌメビリ話。
直接的には出してないけど、ダイパの有名なバグとM次元ラッシュをヒントに書きました。
アルベールの中で咲弥さんの存在はとても大きいって事が伝われば嬉しいです。
