Big time

 朝型(日によっては夜型にもなる)の生活を送るピーターと、夜型の生活を送るメアリにとって、日没後の夕ご飯の時間は二人が顔を合わせる貴重な時間の一つとなっている。二人は幼少の頃、親も家も失い路頭に迷っていたところをウェーニバルの恩人に救われ、そのまま彼が暮らしていたフラットに今に至るまで住み着いているのだが、年を重ねるごとに互いの時間が重なりは減っていく一方だった。同じ血を分けた者同士とはいえピーターにはピーターの、メアリにはメアリの時間があるのだから、それぞれの時間の使い方に口出しする権限はない、それは頭の中では分かっているが、ピーターにとっては唯一の肉親として、思わない日はない妹が自分からフェードアウトしていく感覚に一抹の寂しさを覚えていた。そのためこの時間がいつしか、ピーターにとって至福の時間となっていた。
 今夜もピーターがスーパーで購入した惣菜をメアリが大皿に盛り付けるテーブルの前で、ピーターは姿勢を崩して椅子に座り、たまたまつけたテレビに映っているトーク番組をぼんやりと眺めていた。ピーターにとっては仕事帰りを締めくくる食事であり、メアリにとっては出勤前の景気付けとなる食事となるサモサとコロネーションサラダの香りが労働疲れの鼻腔をくすぐる中、目の前の映像では代々医者の家庭と語る、業界では名うての医師らしいハピナスが司会者の軽快なトークに乗せられて、休日を海外で過ごした事や愛用の高級ブランド品についてを熱弁していた。
「金持ちがよ……」
 つい悪態が口をつく。フラットの前住人が姿を消した後に残った部屋の修復代や光熱費の借金の返済がようやく終了したばかりで、これから人生設計を考えるスタートラインに立った身からすれば、ハピナス医師の話は全てが別世界に聞こえる。俺が長年足掻いていた間にも彼女は──彼女なりの努力や苦労もあったのは察せられるが──順調に人生の階段を積み上げている。その違いがあまりにも歴然としすぎていて眩しく、テロップに表示された数字がハピナス医師と自分と同じ年齢であることを表していると理解した瞬間には舌打ちが漏れ出た。
「チャンネル変えたら?」
 テレビに視線を移す事なく、メアリがため息をつきながらポテトサラダの容器を開く。半ば呆れつつも、暴風を受け流す柳のようにさらりと受け流す口ぶりは、長年共に過ごしてきた彼女の距離感だからこそできる芸当で、それに対して若干の罪悪感と開き直りがピーターの中に同時に芽生えるのも日常茶飯事だった。妹の言葉に従い、ありがたくピーターがテーブルに置かれたリモコンのボタンを押すと、次はどこかの整形外科クリニックのコマーシャルが映し出された。女優が画面内をゴロゴロ転がり回るだけの、コマーシャルの存在意義を疑う映像に再び目が険しくなり、無難な国営放送の教育チャンネルに切り替える。
「それ? その番組好きじゃないんだけど」
「じゃあメアリが適当に決めてくれ」
 ポテトサラダを盛り付けたメアリにリモコンが渡ると、大人になった今もどこか不気味さを感じる容姿の着ぐるみ達が日向ぼっこする映像は、無難な一般人のオーディション番組に切り替わった。実にお茶の間の団欒向きな内容に、ようやくピーターも安堵の息をつく。毒にも薬にもならない内容のテレビをお供に、スーパーの惣菜かメアリが作り置きしている料理を向かい合って食べる、いつもの夕食の時間が始まろうとしていた。

 

「そういえばさ」ピーターがサモサを口に入れた時、メアリがテレビに視線を向けながら口を開く。「小学生の時、でかい病院の家の子が話題になってたよね」
「あいつか」
 スパイスとじゃがいもの味に舌鼓を打ちながら意識をずっとずっと過去に向ける。まだ両親が生きていて、ウィンドンの中流層の集まる住宅街に住んでいた時の話だ。ピーターとメアリは送迎バスで小学校に通っており、学校に着くまで周りの子供らと他愛無い話に花を咲かせていた、今となっては幸せだった時期の中に、たまに学校で見かける身なりの整ったアママイコの少女の姿が確かにあった。名前は忘れたがメアリと同学年で、大病院の家系の子供だった事は覚えている。送迎バスが丁度その大病院を通るため、病院の看板が窓から見える度に周りとある事無い事噂した事が遠い記憶となっている。
「三階建てで、一階が病院で、二階が家族の住居スペースで、三階があの子の部屋だって噂になっていた」
「そんな非現実的な間取りの訳ないだろ」
「噂だって言ったじゃん、その話をする度ピーターがよく歯軋りしていたなって、さっきテレビのハピナスを見て思い出した訳」
「そうだったか?」
 中流層が上流家庭に抱く普遍的な憧れと妬みを、ピーターも当たり前に持っているのは確かだ。ただ当時そこまで悔しがっていたかまでは覚えていない。
「覚えてるよ、ママによく言っていたのを何度も見た。『俺もいつかビッグになって、でかい家に住むんだ!』なんて」
「そんな事……」反論しようとして口を噤む。凄惨で人生の全てがひっくり返った事件の後、それ以前の記憶は封印していたようなものだったが、それを少し解いた今、確かに存在していた過去としてピーターの脳内におぼろげなビジョンが浮かぶ。夕食を作る母親に『フットボール選手になって有名になる!』と騒いでいた微笑ましい少年の横顔。「実現していたら良かったか?」
「あの頃のあたし達は子供だった」
 メアリがちらと向けた視線とピーターの目が合う。永遠に八歳の容姿だが、表情は相応の年齢を重ねてきた女性そのもので、子供にはない諦め、諸行無常、今の生活に対する満足感が浮かんだ青白い顔にピーターは思わず飲食を忘れる。
「あたしはピーターが最強で最高だと思っているから、本当にフットボール選手になってでかい家を買って、あたし達一緒にずっとそこに住むんだって昔は思っていた」
「最強で最高、は過去形じゃないんだな」
「今も思っている事だし。確かにあんたもあたしも色々あって……予想だにしてない仕事をしてるし、家は築何十年だったっけ、とにかく、それなりに古いフラット。でも今は少なくともどん底ってくらい不幸せとは思っていない」
「どん底クラスの不幸せじゃないのはそうだな」
「あたしはこの体質で、あんたは足をなくして、思い描いていた未来とかけ離れて不幸せだけど衣食住があって今の生活に完全に絶望していないからそれなりに楽しく生活はできている。それでいいんじゃないって思ってさ」
「ふん」
 これを運命を共にした相手以外が言っていたら今頃強烈なパンチをお見舞いしていたところだろう。彼女は確かに自分に向けて言葉を交わしたが、どこか自己暗示めいているようにもピーターの耳には聞こえた。メアリが永遠に大人の姿に憧れ続ける一方、自分はみっともない程にフットボール選手の夢を擦り続けている。互いに「呪い」を持ちながら生き続けるしかないからこそ、食事に戻ったメアリの言葉には心に刺さるものがあった。確かに現在だけをフォーカスすれば、振り切れる程に不幸ではない。それにでかい家を手に入れたところで、知識をつけてしまった今考えると維持コストや誰を住まわせるかで大いに面倒な物に感じてくる。
「でも本音はどうなんだ? メアリだってその医者だったり、このオーディション番組みたいに富と名誉に憧れたりはするんじゃねえのか?」
「憧れてないとは言い切れないけど、ビッグになって周りから注目されるのは嫌だし、それを考えたら今の方が良いんじゃないかって思える」
「へぇ、それで……」
 ピーターが言いかけたところで話が終わったのは、出勤時間が迫るメアリから明らかに「さっさと食え」という圧を感じ取ったからだった。急いでピーターがポテトサラダを自分の皿によそう頃にはメアリは五個目のソーセージロールと三つ目のスコッチエッグを平らげており、その後も結局話題について言及する事はなく、いつも通り大きな帽子を被ってメアリは仕事へと向かった。
 ピーターと食べかすの残った皿の数々が残された後で、テレビは相変わらずオーディション番組が続いている。参加者のいかにもアマチュアな楽器演奏を聴きながらピーターは重ねた皿を流し台に持っていく。普段は家事の面倒臭さが支配している脳内を、今夜はメアリとの会話が埋め尽くしていた。
「俺は……」
 どうでもいい過去より今が大事、と周りに言っているが、実態は幼いあの日母親に語った夢に延々と囚われ続けた、中途半端で哀れな男だ。成功者を妬む気持ちは子供の時以上に拗れ、プロのフットボールの試合は素面で見れなくなってしまった。ずきりと痛み出した右足先への関心を無理やりお湯と右手のスポンジと皿の山に向ける。
 バカンス先がパルデアではなかったら、獣人のパラドックスポケモンに襲われる事がなければ。覆らないたらればが調子の悪い日になると延々頭を巡る中でも、メアリとの生活に不満を抱いた事はなく、ウェーニバルの恩人や職場の面々、恩人の息子であるウォルターの顔を浮かべると、彼らとの出会いが悪かったとも思えない。今日食べた惣菜も美味しいものばかりで、仕事も上手くいっている。
「ああ、そうか」
 メアリの青い皿を埋め尽くす白い泡に向かってため息が出る。俺はきっと、今の生活を、人生を誰かに肯定してほしかったのかもしれない。一流や大物になれなくても自分なりに踏ん張ってきた日々、良し悪し関係ない全ての出来事、何もかも見てくれて祝福してくれる存在を渇望していた事に気付いた瞬間、ピーターの心はすっと少しだけ軽くなった心地がした。これで良くないとは思うが、これで良い。
 皿洗いを終える間に右足先の痛みは少し引いたが、相変わらず不快な感覚が漂っている。痛み止めの薬を飲むまでもない、今夜はこのまま一晩を過ごそう。最後の皿を水切りラックに積み上げ、ポケットからタバコを取り出しベランダへと向かう。
 開いた窓から見える夜空は、曇りがちなガラルらしく暗闇と濃い灰色の雲に覆われていたが、その切れ目から見事な形の三日月が白い光を振りまいていた。



(2025/06)
ピーター・ゲイブリエルの「Big Time」を聴いてたら思い浮かんだ話でした。
ピーターとメアリには屈折した日々を送ってもらいたい(闇のわだす)でも多少は幸せでいてほしい(光のわだす)

(Big time-名詞:(スポーツ・芸能界の)一流、成功 形容詞:一流の、大物の)