Spring is coming.

 ピーターのパシリに使われるのは百も承知だ、とため息をつき、ウォルターはウィンドンにある細い通りを歩く。親友ドンと折半して暮らすフラットを出て歩くこと二十分、魔妖局本部のある方向へと向かうと通りには魔法道具専門店、吸血鬼向けのパブ(当然、日中に開店している訳がない)、“曰く付き”のテナントと、魔法使いや魑魅魍魎の一切の問題を取り扱う国営機関が近場に存在する理由が頷ける店が立ち並ぶ。もっとも今は朝の早い時間帯に歩いているため、夜行性に合わせた店は全て閉まっているのだが、初めて通った時は異質な雰囲気に警戒したものだ。
 そんな場所から近いところにあるごく普通のフラットが、ウォルターの目的地だった。もう何十回と足を運んでいるそこに、ウォルターは昨晩ピーターに言われた通りの汚れてもいい服装──水色のウィンドブレーカーにジーンズ、スニーカー姿──を纏い、ウィンドブレーカーのポケットに使い古したエコバッグと軍手を突っ込んだ出で立ちで向かう。暦の上では四月になったばかりでも朝は空気が冷えており、不意に通り過ぎた風が冷たいのも先月から変わらない。身震いしながらクリーム色の建物へとたどり着くと、黒い鉄柵の向こうで煙が見えた。
「うっす、早かったな」
「この時間に呼んだのはピーターでしょ」
 ウォルターよりやや背の高い影が煙草を携帯灰皿に押し込み、ニヤリと口角を上げる。このエースバーンにウォルターの休日、少なくとも映画を見に行く予定だった午前は潰されたのだ。深くため息をついて入り口をくぐり、ピーターに近寄る。頭の中には昨晩ドンとオーディション番組を見ている最中にかかってきた電話の内容が蘇る。
『ウォルター、タダで野菜が貰えるチャンスだぞ。自炊するだろ? お前』
 口では来なくても良い素振りを見せつつ、声音で明らかに「来なければ命はない」と醸し出す口調はピーターがウォルターに誘いをかける常套句だ。確かにピーターは恩人の息子であるウォルターを弟同然に可愛がるが、それはそれとしてたまに彼を都合の良い存在として扱う面もある。それが彼なりの愛情なのか、或いは世の中の兄というのはそういうものなのか。ともあれ、今回もまたウォルターはピーターの用事に駆り出される羽目になっていた。
「どこかで農作業でもするの?」
「ああ、この辺のフラット一帯の共用庭園があって、そこの整備だ。ほら行くぞ」
 ピーターのフラットに立ち寄ることはあれど、共用庭園の存在はウォルターの頭の中にはなかった。途端にウォルターの中に好奇心が湧き上がる。面倒ではあるが、未知の場所にはいつだって興味をそそられる。
「もしかして、その報酬が庭園で育てている野菜とか……」
「流石兄弟、よく分かったな。でもまだ正解じゃない」
「魔妖局があるエリアの庭園だし、マンドラゴラをお譲りしますって言われてもおかしくないな」
「バカ言え、それはおとぎ話の世界に行って取ってこい」
 呆れた口調だが、ピーターの視線はどこかそれを期待しているようにも見えてウォルターは肩をすくめて応える。例えマンドラゴラを採取できたとして、自分やピーターが満足できるような美味しい食べ方なんて想像できない。とりあえずガラルらしくクタクタになるまで煮るか、いい感じに強火で焼くか。
「花だよ、花も持ち帰ることができる。悪くはないだろう?」
 暫くピーターに着いていくと、目の前に鉄柵に覆われた庭園と「プライベート・ガーデン」と記された鉄看板が見えてきた。今まで何気なく通っていた場所だ、ここが共用庭園だったのかとウォルターは鉄柵の奥を覗こうとする。その間にピーターが開錠されている扉を開く。
「あらピーター、久しぶり!」「彼がウォルターね、朝早くからありがとう」「さっ、揃ったところで始めましょうか!」
 ウォルターとピーターが一歩踏み入れた途端、庭園に既に来ていたおばさん達が笑顔で手を振る。彼女達もまた土にまみれてもいい服装で、足元に置いた種の袋や苗からこれからの数時間が容易に思い浮かぶ雰囲気を醸し出していた。
 ピーターの頼みは面倒だが、他人に頼られることは悪くない、寧ろ喜んで請け負いたくなる。ウォルターがピーターに目配せする。
「何だ、随分と楽しそうだな」
「誰かさんに圧力をかけられない限り、僕はできる事何でもやろうと思っているからね」
 ウォルターの言葉にピーターは何も答えず、おばさん達の元へと作業内容を聞きに行く。その背中に思わずウォルターは蹴りを入れたくなる衝動に駆られ、抑えるのに数秒かかる羽目になった。

 

 共用庭園の一角にある菜園で、ウォルターとピーターはラディッシュとパースニップの種を植えていた。魑魅魍魎がより身近な存在のエリアにある庭園のため、作業を始める前にウォルターは身構えながら周辺を見回して生えている植物をくまなく確認したが、驚くほど平和でありきたりな、ウォルターでも知っている種類ばかり目に入るため、作業開始の数十分間は複雑な心情で作業に取り掛かっていた。
「すぐ近くの共用庭園なら魔法使いが魔法薬に使う植物を育ててたりするが、この場所じゃそんな話一切聞いた事ないね」
「なんだ。つまらないというか、ホッとしたというか」
 作業に集中しつつもピーターはウォルターに話題を振る。今日の天気の話(曇りがちだが悪くない)から始まり、今日の作業にウォルターが呼ばれた理由(元々ベテランのネギガナイトのおじさんが加わる予定だったが、腰を痛めて急遽ピーターにヘルプがかかり、更なる人手としてウォルターも呼ばれた)や、お互いの近況などなど。
「今日はどんな無茶振りをされると思いきや。てかピーターってご近所付き合いするんだね」
「多少はな。メアリの分も含めて」
「メアリのことを近所はどれだけ知っているの?」
「魔妖局で働いてる職員もいるから、その家は知っている。あとは引きこもりで通している」
 喋りながらもピーターは手際よくパースニップの種を土の中に埋めていく。その傍らでウォルターはピーターの手つきを真似てラディッシュの種を植えていた。ポケジョブで花屋に派遣される事があり、そこでいくつかの花や野菜の育て方は聞いていたが、いざ実践すると難しい。その上世間話もしながらとなると尚更だ。ウォルターもマルチタスクはできる方だが、ピーターと比べると経験値が低い。だが負けず嫌いな精神と根性だけは誰にも負けないと自負してるため、なんとかピーターに着いていくことができていた。
 既に朝の寒さは和らいでおり、ウォルターはまだウィンドブレーカーを手放せないがピーターはモスグリーンのジャケットを脱ぎ、赤い長袖のシャツの腕をまくっていた。ふとウォルターの視界にピーターが映る。彼の仕事中の猟銃と火炎ボールを抱えて夜のガラルを駆け回る印象とかけ離れた、どこか家庭的な風貌に思わず声が出る。
「どうした? 疲れているなら休憩していいぞ」
「いや、ピーターって庭の手入れとかしているイメージがなかったから、意外に思っただけさ」
「両親と住んでた時によく母さんの庭仕事を手伝わされたんだよ」
 ピーターの昔話、それこそ彼の両親が生きていた頃の話になると、返す言葉が見つからず手が止まる。幸せだが辛い記憶はウォルターにもあるからこそ、「ふうん」と適当な相槌だけ打つ。
「昔取ったなんたらだ、庭いじりの他にはエルダーフラワーを取るのも俺とメアリの仕事だったな。知ってるだろエルダーフラワーくらい? 夏の時期にひたすら摘んでシロップ漬けにするんだ」
「ガラルのポケモンなら殆どはエルダーフラワー・コーディアルを知ってると思うよ」
「じゃあ飲んだことはあるか? あれ炭酸水で割ると美味いんだよ」
「うーん」首を傾げて記憶を呼び覚ます。味は覚えていない。「小さい頃に何回か」
「そうか、まあ夏になったら飲んでみな。今は市販でも売ってるぜ」
 気が向いたら、と返してウォルターは伸びをする。ピーターに張り合って土いじりをしてきたが、同じ姿勢で居続けることに体が耐えられなくなっているのを認めるしかなかった。立ち上がり、先ほどのピーターの言葉に甘えて休んでくると言い残すと、庭園内の気晴らしの散策に出る。
 庭園自体は小ぢんまりとした規模で、一見木々や花が手付かずのまま生い茂っているように見えて、歩くときちんと手入れが施されているのが見てとれた。ある程度は計算された空間なのである。
 上を見上げればマグノリアの花の甘く芳しい香りが風に乗って鼻腔を癒し、脇や足元には椿、ブルーベル、チューリップにその他様々な花がカラフルに咲き乱れている。ウォルターの口から息が漏れる。ウィンドンという名の都会のオアシスといえば広大な敷地の自然公園を真っ先に思い浮かべるが、ミニマルに納まった庭園は自然公園とは違った安心感がある。
 レンガの道の途中にあるベンチに座ると、より自然がウォルターの五感を刺激した。吹く風が青々とした木々をざわめかせる音が心地よい。様々な花々の香りも疲れた心身に沁み渡り、疲れを取り除いてくれる。いい場所だ。あくまで特定のフラットの住民しか入れない共用庭園なので、そうやすやすと入れないところではあるが、ピーターに頼んで安らぎの場所として使うのもありかもしれない。
「春かあ」
 背もたれに寄りかかって呟く。朝晩の冷え込みはガラルに住み続けるなら避けられないものだが、日中の過ごしやすさは先月と比べると随分良くなっている。相変わらず晴れだったり曇りだったり雨だったり、天気は不安定でも春の訪れを感じる陽気は確かに感じるようになっていた。そう考えると少しだけ嬉しい気持ちになる。
「この事、シノノメさんに言ったらどんな顔をするかな」
 虹を見た時の感動を誰かに分かち合いたくなるように、春の陽気も誰かに伝えたくて仕方ない。親友のドンでも、トレヴァーでも、だが真っ先に浮かんだのはここ最近久しく顔を見ていない師匠の姿だった。師匠という言葉だけでは言い表せない、かけがえのない存在。最近は吸血鬼の討伐で忙しいと聞く彼女だって今頃どこかで頑張っているはずだ。
「……よし、僕ももうひと頑張りするか」
 勢いよく立ち上がり、肩を回す。あと少し作業すれば一段落するだろう、菜園に戻ろうと向きを変えた時、視線を地面に向けたウォルターの目に黄色の景色が入り込んだ。
 ダファディル黄水仙の花だ。寄り集まって首を傾げ、存在感を示す様はガラルでは春の訪れの象徴として広く周知されている。太陽のように輝く金色にウォルターの表情もつられてパッと輝く。
「ピーター! ダファディルが咲いてたよ!」
 走って菜園に戻ったウォルターの第一声は弾んだものだった。幼子がお気に入りの石を見つけた時のように振る舞う姿に、ピーターは手にしたジャガイモの種芋から目を離さずに答える。
「おう良かったな。まあ四月だし咲いているだろ」
「そりゃそうだけどさ」ラディッシュの袋を手にして残った種を取り出す。「春だよ? なんかこう、いいじゃん」
「それはまあ、分かるっちゃ分かる」
「ほら、あれ。『一面のダファディルが、湖のほとりの木々の下、そよ風に揺れ踊っている──』」
 ピーターが一瞬顔を上げた時に、ウォルターは無意識に詩の一節を口ずさんでいた。自分でも驚くほどに学生時代の記憶というものは強く残るものである──天涯孤独の身である事もあって、どこか内容に親近感を抱いていたのもあるが。
「……驚いた」気が付けば目の前のピーターはウォルターの方を向いて目を丸くしていた。「有名な詩人のやつじゃん、よく知ってるな」
「テストで嫌と言うほど暗唱させられたからだよ。それにあの詩は心に響く」
 若干の照れ隠しで目線を畝に向ける。詩を完全に覚えている訳ではない。それでも一度口にすると大雑把ながら内容が脳裏に浮かび上がる。それと同時に幼い頃の、母親を失った悲しみを自然や花壇の花々で紛らわせていた記憶も。嘘は言っていない。
「そうだな」ピーターが最後の種芋を埋めた。「もう春か」
 ふっと微笑を浮かべて立ち上がるピーターに視線を移す。いくら親しいウォルターでも、ピーターの全ては理解できない。時折彼が達観した表情を浮かべる度に、心の内を探ろうとしても全く上手くいかないのが常だが、少なくとも一つだけ確かなのは、ウォルターが真っ先に春が来たことを伝えた相手がピーターなのは間違っていなかったことだ。
 それだけ確信すると、再びウォルターは種まきを再開する。兄貴分であるピーターにはいい感じに伝わった。同じようにシノノメさんにもこの事を話したい。それだけじゃない、今すぐ顔が見たい。そうしたら、詩の通り孤独の空洞を一面の水仙で埋めることはないだろう。

 

「それだけでいいのか? もっと持ってってもいいって言ってたぞ?」
 ピーターが水玉柄のエコバッグを覗き込んでくるのをウォルターは止めなかった。ニンジン二つとサボイキャベツ一つ、それで充分なんだから色々言われようが関係ない。エコバッグを肩にかける。
「ドンと分け合うって言っても、これ以上持ってったら腐らせるだけさ。毎日自炊している訳でもないし」
 ウォルターもドンもよく食べる方だが、それでも限度はある。おばさん達からも同様の心配をされたが余らせるよりは使い切る方向で、残りは庭園の住民たちで分け合うようにと伝えた。
「それよりピーターも持っていったら? 野菜好きなんだから」
「俺のところは殆ど自炊なんてしない」
「ニンジンは? 洗えば生でも食べられる」
「なるほど……ありだな。それじゃあ」
 少し考えたらしいピーターも、地元のスーパーの名前がでかでかと書かれたエコバッグにニンジンを数個詰める。これで両者とも今日の成果を得られた。あとは別れて、ウォルターは今晩のカレーと付け合わせのサラダのために買い物して帰るだけ。その前に昼飯を食べてもいい、昼を少し過ぎた頃だからまだどこの店も混みそうだが、多少は待てる。
 そうしてウォルターがカレーのルーをどこの会社のものにするかまで思考を飛躍させたところで、ピーターがまだ何かを取りに庭園の奥へ向かっているのが見えて、思わず足が同じ方向へと動く。菜園から離れ、レンガの道を通り、ベンチを少し過ぎたところ。ピーターが屈んだところまで来てウォルターは納得がいった。花も報酬にできる。
「お前に言われなければ持って帰ろうとは思わなかった」
「ダファディルか、いいね」
「ああ」ピーターの手が花を球根ごと引き抜いてみせる。「切花にして飾ろうと思ってよ」
「ピーターも切花を飾るんだ」
「お前、俺を何だと思ってるんだ?」
 そこそこの広さの芝の庭がある以外、ピーターのフラットに植物の気配を感じたことがないウォルターが反論しようとして、面倒ごとを感じてやめる。彼も妹メアリも好んで家に花を持ち込むイメージがなく、あのリビングのどこかに飾り立てられるのが新鮮だった。近いうちダファディルを見に家へお邪魔してもいいかもしれない。
「メアリが喜ぶだろうし。せめて家の中でも春を楽しめるように、な」
「そっか」メアリは体質上夜しか出歩けない。「春が来たなんて分かりづらいよね」
 茎や球根についた泥を払いながらピーターが頷く。彼も思うことは同じなのだ、身近な大切な相手にこの気持ちを伝えたい心。特に夜に活動する者はこの陽気や、太陽の光で色とりどりに染まる花や木を見ることができない。今晩の食卓で思考の半分が埋まっていた脳内にシノノメが浮かぶ。彼女も暫くは夜に活動しており、メアリと同じ境遇になっているに違いない。即ち、春の訪れを感じている可能性が限りなく低いということ。
「いい事を聞いた。ありがとう」
 ウォルターにも閃いたものがあった。ピーターの隣に屈むと、なるべく小ぶりで見栄えのいいダファディルを選び抜き、茎の途中から摘み取る。
「おいおい、折角なんだからもっとでかいやつをガーっと取ってけ」
「いや、これでいいんだ。なるべく近いうちに渡したい相手がいて」
「へえ?」
 ニヤニヤしながら更に口を開こうとするピーターに目尻を吊り上げて牽制する。後からメアリとの席で話題にされるのは諦めて、心は決まっていた。春を告げる花として、ガラルでこれ以上のものはない。潰れないよう花をエコバッグに入れて立ち上がる。
「今日は楽しかったよ、たまにはこういう日も悪くない」
「俺に感謝するんだな」
 悪びれる素振りのない言葉に一瞬、ピーターにどの技をくらわせるか迷って選択を取り消す良心がウォルターにはあった。そのかわり彼の背中をそこそこの力で小突く。これも良心だ、今日はこれくらいで勘弁してやるという。次に同じことを言われたら力一杯引っ叩いてやろう。
 それで全てが終わったところで、庭園の入り口からおばさん達の声がするのが耳に入った。
「昼ご飯をご馳走するって。ピーター、どうする?」
「実に至れり尽くせりだ」
 互いに顔を見合わせたタイミングで、どちらのものかも分からない腹の虫も鳴る。雲から差し込める暖かい陽気に照らされて、ウォルターとピーターは揃ってレンガ道を駆け足で進み始めた。

 

◆ ◆ ◆

 

「んん?」
 開いた本からパサッと何かが滑り落ちたのをオーレリアは見逃さなかった。夕ご飯を食べ終え、風呂にも入り、学校から出された悪魔的な課題も終わらせて、やっとの思いで友人から借りたゴシックホラー小説を読もうとした時だった。
 掛け時計の短針は既に十一を指しているが関係ない。明日は休日で、お気に入りのレモンイエローの生地に白いフリルをあしらったネグリジェを着込み、読書のお供にカモミールティーを用意した今は無敵だ。いくらでも夜更かしして読み進めてやる。アンティークの机の前に座り、いざ兼ねてより読みたかったハードカバーの傑作を──そう意気込んだ瞬間だった。
 一瞬だったため落ちたものはじっくり確認できなかったが、メモ用紙のようなものではなく、もっと厚めの何かだったのは確かだ。大きさからしてブックマーカーだろうか? 反射的にオーレリアは立ち上がり、ピンク色のもこもこしたスリッパで踏まないようにそれを拾い上げる──やはりブックマーカーだ。手作りらしく、ダファディルの押し花が眩しい、ラミネート加工されたそれは上部に赤いリボンが巻かれており、その色がどことなく本の持ち主であるシノノメの瞳の色を思わせる。素朴ながら作り手の心がこもった作品だ。そう直感する。
「可愛い! シノノメさんってこういうブックマーカーを使うんだ」
 オーレリアの想像するシノノメはエキセントリックな雰囲気で、もっと風変わりな持ち物を使うイメージがあった。数日前彼女の屋敷に久しぶりに立ち寄った際も、相変わらず部屋の中は風情のある洋室に無理やり和風のものを無造作に散りばめたチグハグな内装で、ギャラドスを描いた水墨画やなんとか焼きという大皿を眺めながら“クァーキー”という言葉を思い浮かべていた程だ。曰く、亡き師匠から貰った形見らしいが、それにしても不思議な空間だった。間違いなくこの部屋にはオーレリアが部屋で愛用するボタニカルでホッとする香りより、東洋の花やスパイスをブレンドしたオリエンタルな香りが似合う。
 数週間ぶりに出会ったシノノメは、一見するといつもの涼しい姿のようで表情には疲労感が見てとれ、それを取り繕う素振りも見せなかった。おそらく初めて出会った者であれば、陶器のような青白い肌と伏し目がちなまぶたの間からのぞく血のように赤い瞳もあってギョッとするだろう、だがオーレリアはシノノメが夜な夜な吸血鬼と戦っている秘密を知っているため、おそらく最近忙しかったのも、疲労の正体もそれが理由だろうと察するだけに留める。もっとも詳細までは知らない方がいいという本能を信じて聞かないようにしているが、もう一つ顔に浮かんでいる感情──喜びについては言及しても良いだろうとさりげなく尋ねた。
『最近嬉しいことでもあった?』
『まあ、多少は』
 それ以上シノノメは答えなかったが、どんな理由であれ友人が喜ぶ姿を見るとこちらもご機嫌になる。その後は当たり障りのない会話を交わし、オーレリアが読みたがっている本の話題になった時にシノノメがちょうど読み終えたばかりだと帰り際に持たせてくれた。それで充分なのだ。彼女が周囲から奇異の目で見られていようが、オーレリアにとっては気の合う年上の友人だった。
 そんなシノノメが可愛らしいブックマーカーを使っていたことにオーレリアは思わずにっこりと微笑む。押し花がまだ新しいというということは、最近作られたブックマーカーだ。どこかのマーケットで手に入れたのか、彼女の妹か弟から押し付けられたものなのか。何気なく裏返すとそこにはペンで一言文章が添えられていた。
「あっ、なるほど……これは、分かっちゃったかも」
 筆跡を鑑定しなくてもオーレリアにはある友人の顔が浮かんだ。きっと、間違いなくシノノメはこのブックマーカーを今頃赤い目を更に赤くして探しているに違いない。本とブックマーカーを机の上に置くと、ラインストーンでゴージャスにデコった携帯電話をカバンから取り出してシノノメの携帯電話の番号にかける。学校の友人相手ならばやや非常識な時間帯だが、シノノメは寧ろ今の時間帯の方が好都合なこともオーレリアは熟知している。
「オーレリア?」
「もしもし、シノノメさん?」数回のダイヤル音の後に電話が繋がる。「夜分にごめんなさい、実は借りた本からブックマーカーが出てきて……」
「ブックマーカー?」
 身を乗り出した時のように、電話の向こうの声が一瞬高くなる。これはオーレリアの思った通りになっているに違いない。
「そう、ダファディルの押し花の。 明日返しに行こうか?」
「……今、取りに行くと言ったら?」
「今?」
 今度はオーレリアの声が上ずる。そこまで大切なものとは想像していなかった。電話を耳に当てながら周囲を見回し、耳を澄ませる。日付が変わるか変わらないかの深夜、家族は自分と姉のコーネリア以外は寝ているだろう。使用人達も今は日中ほどいない。カーテンを少し開け、ベランダに通じる窓を少しだけずらすと眼下から通行人の話し声が少し聞こえる程度で、ほぼ静寂が広がっていた。
「もしかしなくてもベランダから忍び込むつもりだよね。私は大丈夫だから、気をつけてね」
「勿論」
 それだけ聞こえてブツっと電話が切れた。まさか本当に忍者のように来るなんて! オーレリアのよく知るシノノメの姿とは別に、夜中に活動する時は忍者装束を身につけるとは予々聞いていた。もし拝むことができたらますます今日は眠れなくなりそうだ。
 開いた窓の僅かな隙間から冷風が入り込んだため、まずは窓を閉める。春になったばかりでも関係なく、朝晩は一年を通して冷える。日中の陽気がずっと続けばいいのにと思いつつ、錠はかけない事にした。
 それからどうやって時間を潰したかは覚えていない。借りた本を読む気にもなれず、なんとなくカモミールティーを飲み干し、なんとなく机上の本断から取り出した魔法学の参考書をペラペラとめくってみる。見慣れた図や文章はあまり頭に入らなかった。普段とは違った雰囲気のシノノメを見れるなんてワクワクしてくる、夜の世界をオーレリアはあまり知らないが、シノノメを通して知れるなら最高だ。
 掛け時計もちょくちょく確認していた。オーレリアの屋敷とシノノメの屋敷はそこそこ離れており、バスで例えると一駅分は距離がある。一駅、なので歩けなくはないのだが、果たして彼女はどうやってベランダまで来てくれるのか。
 やがて時計の長針が九を指した時、コンコンと窓を叩く音がカーテン越しに聞こえた。想定よりも早く訪れた来訪者に対する興奮と期待と不安で、オーレリアはそっとカーテンを開ける。最初に見えたのは青白い手だった。知ってる相手でもいきなり目にすると小さく声が出る。これは吸血鬼でも夜に相対すれば震え上がるに決まってる。しかしオーレリアとシノノメは友人同士、次に目に映った顔を見てオーレリアは勢いよく窓を全開にした。冷たい風と共にいつもの少し微笑んだ涼しい顔のシノノメがオーレリアの胸に飛び込んでくる。

 

 入ってきた友人の姿にオーレリアはガッカリした。確かに黒い服ではあるが、身につけているのは黒いジャケット、灰色のパーカー、黒いズボンと思い描いていた装束とは程遠い。驚くほどラフな出立ちに落胆の表情を隠せないまま椅子を勧め、シノノメが座ったところでダファディルのブックマーカーを返す。
「どうして忍者の服じゃないの?」
「何故って、用事のついでにここへ来ただけデスから。あの服は戦装束で、相応の時しか来まセンよ」
 この時間に外出! 上流階級のゴシップをある程集めているオーレリアでも、シノノメの謎めいた生態の全ては解き明かせていない。何の用事なのか、家にはバレてないのか、そもそも一見自由そうに見えてなぜ家に縛られているのか、疑問が尽きないばかりの彼女に問い詰めたい気持ちはあれど、ブックマーカーを愛おしそうに触る姿を見ると知らない方がいい事が世の中にはあるという格言が思い出される。少なくとも、今のシノノメは傷や返り血など、物騒なものは付いていない。聞くのは野暮という結論に至る。
「それよりそのブックマーカー、大切なものでしょう。もう無くさないようにね」
「ほう、どうしてそう言い切れる?」シノノメの瞳がかっと開く。
「えっ?電話した時嬉しそうだったから……」
 思わぬ一言にオーレリアはたじろぐ。何気ない一言のつもりが、墓穴を掘ったことに気付いた時には遅かった。
「他には?」
「えっと……」どこか心を見透かすような、探るような赤い瞳を向けられてはオーレリアも白状するしかなかった。「ごめんなさい、裏を見ちゃって」
 その言葉にシノノメが一瞬顔を引きつらせる。驚きと静かな怒りと、どこかばつの悪そうな感情がオーレリアにも伝わり、オーレリアは重ねて眉を下げて相手の目をおずおずと見る。他人の手紙や日記を覗き見た時に似た好奇心があるのは否定しない一方で、罪悪感だって持ち合わせている。
 ブックマーカーの裏側に書かれたただ一言『あなたに会いたい』という切実さが伝わってくる筆跡を見た瞬間、全てを察してしまった。シノノメの愛弟子との師弟の絆の固さと愛情深さ。オーレリアは二人と親交があり、なおかつ関係性のことも全て知っているからこそ、二人の仲睦まじさを微笑ましく思っているが、プライベートなことはなるべく目を逸らすようにしていたのだった。だが見てしまった以上は仕方がない。
「まあ、貸した本に挟んでた私の不用心さもありマス、気にしまセン」
 シノノメがふうっとため息をつき、何も持ってない方の手をひらひらさせる。この話題はこれで一区切りとも言わんばかりに。それでも部屋内に充満する形容し難い空気はそのままで、少しでも場を和らげようとオーレリアはとりあえず口を開く。
「あー、そう言えばダファディル! 私も今本棚の空いたところに飾ってて。もう春なんだね」
 本棚に駆け寄って、白く可愛らしい花瓶から顔を覗かせるダファディルの切り花を指差す。ブックマーカーの押し花よりも一回り大きい数輪のダファディルは挿したばかりで、まだ瑞々しさと華やかさをまとっていた。屋敷の中に飾られた花は大抵使用人が手入れしているが、自室の花はオーレリアが選び、都度手入れを欠かさずおこなっている。この花も特に鮮やかなものを花屋で選んだばかりだ、副花冠のオレンジ色と花びらの黄色のコントラストが美しい。
「春……?」
 シノノメが鋭い目を本棚のダファディルに向ける。その表情は訝しむ、というより呆気に取られているようだった。この瞬間初めてその情報を知ったような、ともあれオーレリアにはそう見えた。
「春……そんな事最近全く考えなかったデスね……」
 オーレリアの耳に椅子が微かに動いた音がする。おもむろに立ち上がったシノノメはそのままオーレリアの側へ寄り、今度はまじまじとダファディルを見つめる。今の時期は別段珍しくもない花だ。それにダファディル自体値段としては安価な方で、スーパーに売っているものだと食べきりサイズのお菓子と同等の価値になる。それでもシノノメの目には新鮮なものに見えたようで、いつもの伏し目がちな瞳も完全に開き、その横顔はキラキラと輝いていた。
 普段のどこか怪しげで、心の底から笑った姿が想像できない風貌の彼女が見せる、少女のような表情をオーレリアは初めて見た気がした。おそらく、いや間違いなく貴重なものだ。ダファディル一つでここまで表情が穏やかになるなんて予想だにしなかった。
「なるほど、それでこの花を贈ったという事デスか」
 おやおや、そういう事。シノノメの呟きにつられて声を漏らしそうになって、反射的に口を塞ぐ。それでも両手で隠した頬は緩みっぱなしで、オーレリアの心臓も喜びに高鳴る。ブックマーカーの贈り主は聡く、シノノメのことを分かり尽くした上で贈ったはずだ。彼女が季節の変わり目に気付かない日々を送っていること、贈り物を手にした時にこの表情浮かべること。つくづく目の前に彼がいないことが惜しい。
 まるで偉大な科学者より先に物理法則に気付いたような、歓喜と驚愕の表情で手元のブックマーカーとダファディルを交互に見比べるシノノメに、オーレリアは声をかけずにはいられなかった。
「ねえ、会いに行っちゃいなって。きっと彼、今頃寂しがっていると思うよ? こんなブックマーカーを贈るくらいなんだから」
 今のシノノメなら、夜も更ける中このまま彼の元へ会いに行ってもおかしくない気がしたが、オーレリアはもう一つの答えを確信していた。
「デスね。久しぶりに日傘を差して出歩くのも悪くない」
 ダファディルは月光よりも太陽の光がよく似合う。それが分かっているなら心配いらない。それに昼間は賑やかで、愉快で、特にぽかぽかした陽気が照らす今の季節なんて最高の気分で歩き出せる。喧騒や日の光を苦手とするシノノメでもきっと気に入るだろうと、オーレリアはそう信じてやまなかった。
 そう考えるとオーレリアも頭の中に恋人ドンの姿が浮かんで、机の上の携帯電話をとって電話かメールをしたい衝動に駆られる。ダファディルのようにふわっと輝くクロムイエローの外出着と真っ白なつば広の帽子を着て、一回りも二回りも大きなドンの腕を取って花々が咲き誇る庭園を散策できたら、最高の一日になるに決まっている。シノノメさんが帰ったら早速メールを送ろう。
「素敵! きっと楽しい一日になるよ! それでどこへ行くの?」
「そうデスね……ダファディルが咲き誇っている場所なら、どこでも」
「なら私ね、ダファディルが綺麗な場所を知っているの」
「それは良い」
 シノノメが食いつく様子に遂に破顔を見せる。今しがたドンを誘って行こうと考えていた、街中にあるそれなりの穴場スポットの庭園で、穴場だからこそ他人に教えるのはやや迷う場所だが、寧ろ彼女には喜んで教えたかった。何なら今から二人用のお出かけプランを考えながら案内したいくらいに。
「スタジアムに行く道の途中に河があって、そこから遠くない場所なんだけどこぢんまりとした庭園があって……」
 庭園を散策した後のランチや買い物、その他変わったものを取り扱う博物館……気を抜けばすぐ話題が飛躍しそうになるのを一生懸命抑えつつ、じっと耳を傾けるシノノメの目を見ながら、オーレリアは一つの妄想が止まらなくなっていた。
 暖かな日の光が眩しくも優しく降り注ぎ、上空をマグノリアの白と紫のカーテンが彩り、足元に咲き誇る大勢のダファディルの絨毯が風に合わせて踊る道を歩く二つの影だ。一人は漆黒の傘を差した上品な女性で、もう一人は相手をエスコートするように、傘を持っていない方の手を取って無邪気に振る舞う少年。
 日の光に負けないほど眩しくて幸せなその影は、やがてひとつに重なるとオーレリアの想像を飛び越えて光の中へと歩き出し、やがて強まる光が景色ごと影を包みこみ──オーレリアが話し終える頃には全てが白塗りの世界へと消えていた。

 



(2026/4)
「ガラルの春が描きたい!」という一心で書き切ったウォルシノ風味の話でした。
ガラル、もといイギリスの春といえばダファディル。これだけは譲れない気持ちと共に、どこか胸が躍る春めく時期のウォルター達を描くのは楽しかったです。
ちなみにダファディルなので、ワーズワースの詩も意識したりしている。作中のやつはパブリックドメインである事を確認した上で、自分で翻訳したものを使っています。