いつだって彼からの連絡は唐突だ。ある時は夜中に電話が鳴って、翌朝にプライベートガーデンの作業を手伝ってほしいと言われる時もあれば、依頼を探しにフラットを出た瞬間ドアの前で待ち構えられ「魔妖局の調査を手伝ってほしい」と首根っこを掴まれる時もある。兄を騙る不審者、と周囲には事実をありのままに伝えているが、実の兄もそうする生き物なのだろうか。一人っ子どころか天涯孤独の僕には全く想像つかない。
「どしたん? 浮かない顔で」
憂鬱なやり取りを終えて受話器を置くと、隣にいた親友にして同居人のドンが一回り大きな体で見下ろしてきたので、無言で走り書きのメモを見せる。その瞬間にドンが同情の眼差しを向けてきたのは、それだけこの光景が繰り返されてきた証拠だ。
「ドンは兄さんからパシリに使われた経験はない?」
「なーん、兄貴はまあ……優しかったからな。全く」
「……だよね」
ドンの兄と電話口の相手は同じくらいの年代だ。僕もドンの兄に会ったことはあるが、弟だけでなく部外者の僕に対しても親切にしてくれた。ハロンタウンやブラッシータウンの各家庭をたらい回しにされて生きてきた幼少期の中でも良い思い出に分類されるくらいに。夜中に泊まる家まで手を繋いで送ってくれた日の事は今も忘れられない。
だからこそ先程の電話を思い出すと落差に向っ腹が立ってくる。それでも無視できないのは僕の亡き父が繋いでくれた過剰なまでに温かな縁だからだ。僕が生まれるよりはるか前、父が生前窮地を救った小さな兄妹こそ、今こうして僕に兄貴面姉貴面する二人に成長し今に至っている。
「とにかく、暫く出かけてくる。夕飯は適当に食べといて」
「了解。んでも大変だな、たまには反抗すっぺとか思わねーのか?」
「いや、そこまでじゃないんだ。ピーターはシノノメさんと同じくらい、僕にとって大切な相手だから」
「そうかい」
ドンが当然と言わんばかりに返してくれたのは嬉しかった。僕の事情を昔から知っているからこそ、その声色に安堵感があることに一生の友情を誓ってもいいと思う。
「それじゃあ」と僕は鞄にエコバッグを無造作に突っ込んで玄関のドアを開ける。そして大急ぎで書き殴ったメモに抜けが無いかを確かめて一歩踏み出す。
「ウォルターか? モーモーミルク二パイント、コンビーフ五缶、冷凍パスタ三皿、ミックスベジタブル、あとニンジン三本と、それから惣菜コーナーでポテトサラダを……」
午前のポケジョブから解放され、午後から何をしようか思案を巡らせながらマーケットの惣菜をリビングで食べ終えたタイミングで廊下から鳴った電話は、巡らせていたスケジュールを全て潰すには申し分ない用件だった。
「もしもし、ボイスレコーダーの電源を間違えてるようだけど」
「俺がボイスレコーダーだと思えばそれはボイスレコーダーになる。後で金は払うから買ってきてくれ、冷蔵庫が空なんだよ」
「自分で行く選択肢は? 夜も営業してるスーパーに君の妹を行かせる事もできるよね」
暫くの沈黙。ややあって電話口から聞こえたのは不満げな声だった。「メアリは数日仕事で帰ってこない」
どうやら自分が行く発想は無いらしい。その地点で僕は厄介事に巻き込まれた時の面倒臭い感覚から受話器を置こうとしたが、幸か不幸か心の片隅にある良心が咎めたので最後まで相手をしてやる事にした。
「……分かったよ。報酬は高くつく、その条件をのんでくれるならもう一度最後まで話してほしい」
こうしてため息混じりにメモを取った紙切れ全てにチェックをつけ、膨らんだエコバッグを片手にえっちらおっちらピーターの住むフラットへ辿り着いたのは午後の日差しが程よく降り注ぐ時間だった。
インターホンを押し、反応が返ってこないのをみて再度押す。ドア越しに耳を澄ますと、金属と布が不器用に擦れる音がし、義足とは明らかに違う音に違和感を覚える間にドアが数センチ開いた。
「入ってくれ」
隙間から見えるピーターの表情が、まるで星を支える神話の巨人のように見えて慌ててドアノブに手をかける。そのまま家の中へと入ると目の前にいたのは右膝から先が欠けた、松葉杖をつくラフな格好のピーターの姿だった。ソファーやベッドに寝転ぶ時以外で義足を外しているところを見たのはこれが初めてという好奇心と葛藤しつつ、彼のプライドを損なわない程度に脚を凝視しないよう目線を下に、今握りしめているエコバッグに注意を向ける。
「何突っ立ってるんだ? ついてこい」
「あっ、うん……」
あまりにもずるい。そんな姿で出迎えられたら買い物中の不満も有耶無耶にされてしまうし、行き場のないモヤモヤの吐き出し口も消されてしまう。これが同情を誘うパフォーマンスなら思いっきり顔にビンタをくらわせたいが、まずは釈然としないまま廊下を通る。
「もしかして、義足が壊れたりした?」
歩きつつ、道中視界に入った半分開きっぱなしのピーターの部屋のドアを閉じながら尋ねる。
「ああ、そんなところだ」
歯切れの悪さは僕の耳で聞く限りしない。それでも本能が違和感を感じ取り、ますます釈然としなくなる。顔を覗こうにも背中越しに言われては確認のしようがなく、仕方なくカバーをつけた松葉杖が床につく音を聞きながらキッチンへ辿り着き、食べ物が痛まないうちにエコバッグのものを冷蔵庫に詰め込んでいく。
メアリは多少料理ができるが、ピーターは炊事の大半を妹に任せ、自分はニンジンを程よい大きさに切るくらいしかしないと豪語している。食料を冷蔵庫に詰める度にそれを思い浮かべたのは自炊しなくても手軽に食べられる食品ばかりだったからだ。しかし今のピーターを見るとその意味も少し変わってくる。今日だけは彼をものぐさと一蹴しないでおこうと決めて最後の冷凍豆腐ハンバーグを冷凍庫に押し込めた。
フラットが建てられた頃の古き良き時代を思わせる雰囲気を纏ったやや狭いリビングでは、ピーターが大きめのソファーに寝そべり、テレビを眺めていた。その足元には松魔杖が揃って立てかけられている。
ピーターの視線の方向に目を移した。ガラルの住人なら誰でも知っているストップモーションクレイアニメだ。発明家のバリコオルと相棒のパルスワンが織りなす物語は、子供時代の記憶として染みついている者が大半だと思うが、ピーターは「大人になろうが面白いものは面白い、それにアニメを作っているのは大人だ」などと理由を熱く語ってはしょっちゅう見ている。確かに何歳になっても趣味を貫いている方が潔いしクールだ。こんな感じに根幹に通ずるものがあるから、僕はピーターを嫌いになれないのだろう。
「終わったよ」
空になったエコバッグを鞄に戻してピーターの元へ向かうと、彼は欠けた右脚を気にする素振りからパッと元の体勢に戻った。そして即座に彼の上半身が起き上がり、すぐ近くのテーブルにある財布にその手が伸びた。
「よくやった、釣りは全部やる。報酬は高くつくんだろ?」
ニヤリとした笑みと共に無造作に渡された数枚のお札の額に一瞬クラっとする。良く知る者達からは大食いコンビと称される僕とドンを合わせて、大体一週間くらいの食事をまかなえるだけの価値が手のひらにある事実は、いつも「お使い」のお釣りを多くくれるピーターからしても破格すぎる。思わず目をしばたたかせてピーターの顔を見やった。瞳や口元からは特に裏の顔を感じず、自分の直感が不安になってくる。
「た、確かにそうは言ったけどさ? 流石にこれは……」
「何だ? 俺の感謝の気持ちが受け取れないのか? 言った言葉には責任持て」
「そうじゃなくて……」今日のピーターはいつにも増して真意が読めずに苛々してくる。「ああもう、それならもう一つ頼みを聞くよ。他にもやってほしい事がありそうだし」
刹那、ピーターの目が丸くなりこちらを見返す。それこそマメパトが豆鉄炮を食った言葉通りにキョトンとしたまま数秒の時間が経過した気がした。気がしたのは時間が止まったように感じて、正確な経過時間を計れなかったからだ。
「本当か?」
「言った言葉に責任を持てと言ったのは誰だい?」
僕が言い返してやると、ピーターはふっと目を細めて息をついた──何てことだ、恩人の息子である僕にも滅多に見せない柔らかな表情をするなんて。やはり今日のピーターは予測不可能だ。
「それじゃあ、メアリのカイリューのぬいぐるみを採寸してくれ、バレないように」
「はい?」これも予想の範疇にない答えだった。「えっと、あの緑色の?」
ピーターからはそうだ、という頷きと傍らの裁縫道具の中から乱雑に掘り起こされたメジャーが飛んできた。即座にキャッチできたのはいかなる時でも敵の攻撃を見極めよ、と師匠のシノノメさんから叩き込まれた反射神経があったからだ。
メアリが大切にしているカイリューのぬいぐるみは何度か見せてもらっているから造型はすぐに思い浮かぶ。父さんが僕にピーター達とのコネクションを残してくれたなら、メアリにはイッシュ発のブランドものの色違いカイリューのぬいぐるみが手元に残ったのである。確か翼がキラキラのラメで加工されてて、ノエルという名前がついていたはず。彼女の敬愛する恩人の形見であるのは勿論だがそれ以前に他人の持ち物をベタベタ触っても良いのだろうか。
「どういう事か教えてもらわないと」
「分かったよ」ピーターは頭を掻いた。「メアリの誕生日プレゼントにぬいぐるみの服をオーダーメイドしようと考えている。ただそのためにはサイズを知らないことには作れない訳だから、それを知ろうとしている」
「ピーターがやるのは?」
「あいつは鼻がきくからすぐバレる。きっと手袋をしても手袋の匂いから推測してくるだろうな」
確かに、と相槌を打つ。嗅覚に優れるだけでなく、吸血鬼探偵の助手を務める存在なんて警戒するしかない。ましてや手の内を粗方把握できる妹ともなれば尚更だ。そこまで考えてなぜ僕に役目が回ってきたかは全くの謎だが。
「だからお前の出番さ。その、魑魅魍魎の力を封じる手さえあればどうにでも……」
「ならないって!」
ドンと話す時のノリと勢いでバカか? と言いそうになってすんでのところで軌道修正できた僕自身を脳内で褒めちぎり、かわりにメジャーを投げ返して鬱憤を晴らす。僕の怪異を無効化する体質をもってしても、メアリ並の嗅覚を掻い潜るのは不可能に近い。
「僕にだってできない事は山のようにある。無理なものは無理だってば」
「うーん、そうか」
ピーターが真剣な表情で右脚をさする。真剣、と言うより深刻な、というのが正しい気もしたが、とにかく肩をすくめる僕に目線が移った時には表情から若干険しさは薄れていた。
「じゃあ、仕方ねえ」
ふうっとため息をつき、メジャーをテーブルに置いてピーターが再びソファーに身を沈める。テレビはまだクレイアニメを映しており、バリコオルの発明した奇天烈な掃除ロボットにパルスワンが追いかけられているシーンが流れていた。話はまだ終わっていないのにあんまりだ。
「だけど言い訳ならいくつか思いつくよ」テレビを塞ぐようにピーターの前に立つ。「『掃除中にぬいぐるみを落としたから拾って机の上に戻した』とか」
「自分の部屋は各々で片付けるようにしている」
「だったら差し入れを机に置こうとしたはずみでもいい。何を差し入れするかはピーターに任せるよ」
「なるほど」ピーターが身を起こす。苦笑にも見える笑みにキラリと瞳を光らせて。「やるじゃん、流石ウォルターだ」
これは本心だ。そう察した瞬間胸にランタンが灯ったようにポカポカしてくる。ピーターが誰かを心の底から褒めるのは滅多にないと妹メアリが語っているように、彼の褒め言葉は大抵浅さと皮肉が混じるが、それが今やテストで満点を取った我が子を前にしたかのような面立ちでこちらを見つめているのだ。幻覚であっても頭を撫でられているように感じるのは心地が良い。
「……何だい、今日のピーターは。色々とおかしいよ」
「俺はいつだって素でいるが?」
「じゃあもっと褒めてほしいって言ったらしてくれる?」
やっとこさ本心を見せてくれたピーターに弱いのは分かっている。兄を騙る不審者であっても、僕を本当の弟のように可愛がってくれるのは彼しかいないのだから、いつものバカみたいなやり取りを封印したい時だってある。勿論ギャップそのものに弱いのあるが。
とにかく、ピーターの目に笑みが宿っているのを見た時に、僕は十五歳の少年として二十八歳に猛烈に甘えたいと思ってしまった。そしてピーターはそれに応えてくれた。言われるままに視線を合わせて近寄ったところを抱き寄せられ、労うように何度か肩をバンバンと叩かれ、頭をわしゃわしゃと撫で回されてようやく僕の心の中の少年はいっぱいに満たされた。
僕が素を全部曝け出したにも関わらず、ピーターは己の全部を見せようとしなかった。少なくともクレイアニメの新しい話のオープニング曲が流れ始めて関心を全て持ってかれた時も至って自然体に見えるようにしている。
彼が何かを隠しているのは明確だ。一度本当の感情が漏れ出した事で疑惑はほぼ確信へと変わった。現に僕を滅茶苦茶に褒め倒した後のピーターは、僕にアイコンタクトを送っては口を開きかけ、さりげなく閉じるのを何度か行った。果たして推測を伝えるべきか、流れに身を任せるか。
「どうしてピーターはこのアニメが好きなの?」
「好きに理由なんて必要か?」
「分かった分かった、ストップモーションアニメのどこに惹かれているかを知りたい。昔ストップモーションものなら何でも見るって言ってたでしょ」
他愛のない会話でとりあえず彼の本心を引き出そうとする作戦には私情も混じっている。ピーターは今流れているアニメのみならず、最近大ヒットした三味線で戦う少年の人形劇映画から、バラエティ番組のジングルにメロディーが使われている曲の奇妙で強烈なミュージックビデオまで、ストップモーションなら何でも好んで見る奴だ。時々僕に映像美を熱弁する姿を見るたび疑問に感じていたが、考えてみれば好きな事に夢中な者はその間は自分を取り繕わない。
「色々あるが、強いて言えば職人の執念や拘りを見るのが楽しいからだな」
「いいね」僕もストップモーションに膨大な手間がかかる事は知っている。「きっと制作の裏側を見たらより楽しめそう」
「小学校に通ってた時に校外学習でスタジオを見学した事があるが、あれは熱かったな」
遠い目に無邪気な雰囲気をまとい、口元に微かな笑みをたたえるピーターを、僕は見た記憶がある。廊下に飾ってある古びた写真に映ったラビフットの少年が正にこんな表情で家族に囲まれていた。クールでシニカルに生き続けるなんて彼には無理な話だと思うと、こちらもつられて微笑んでしまう。
「ウォルター、今の俺は機嫌がいい。もう一つだけ願いを叶えてやる」
その流れでピーターが目を細めた。和やかな雰囲気から、その言葉に思わず頭のアホ毛がピンと伸びそうになる。ここで畳みかけるべきか、もう少し泳がせてみるか。ほんの数秒で思考をぐるりと巡らせ、このタイミングを逃せば次はないであろう結論を導き出す。それに今のピーターにだったら多少ラインを超えたジョークを言っても軽く肘を小突かれるだけで済むはずだ、他人ならまだしも、精神的な距離の近い弟分である僕の言葉なのだから。
「それじゃあ一つ、僕の前ではもっと素直になってほしいな」
「あん? それはどういう」
「ピーターの部屋にあった義足がピカピカだったのが気になっただけさ」
ドアを閉める間のわずかな時間しか目にしていないため見間違いの可能性もあるが、僕の目と勘は割と良い方だと自負している。電気の消えた部屋でもレースのカーテン越しからの薄明かりで全容はざっと見渡せた。ピーターは仕事と戦闘用に使うゴテゴテした義足と、日常で使うシンプルな義足を使い分けているのだが、思い出す限り二つとも破損しているようには見えなかった。仮に壊れているとしても二つ同時に壊れるなんて、片脚だけしか使わないなら限りなく確率の低い話だし、そもそも身体の一部ともいえる器具が破損したら僕なら真っ先に修理に持って行く。
加えてしばしば険しい表情で右脚を気にする素振りを見せていた姿。間違いなくピーターは自分を万全に見えるように取り繕っている。その証拠に彼の表情はサッと青ざめ、またすぐに戻ったとはいえ、露骨に視線を僕から逸らし、鼻梁をつまんでは小さい呻き声を唇の隙間から発している。
「……お前、いつから気付いてた」ピーターの額に冷や汗が浮かぶのが見えた。
「違和感で言うなら、この家に入った時から」
「流石だよ」皮肉混じりでも誉められるのは光栄だ。僕が口角を上げるとピーターの顔が一層険しくなった。「そこの棚に救急箱がある。取ってこい」
彼の指差した方向にある棚へ向かい、それらしい木箱を手に取る。そのまま彼へと渡すと箱が金属の音を立てて開き、そこから絆創膏や包帯が無造作に抜き取られる。それ以上はあまり見ないようにピーターから背を向けた。彼の欠けた右脚を凝視するのはなんとなく気が引ける。それこそ幼児の粗相を好き好んで見る者がいないように、僕もこの世にアンタッチャブルなものがあるのは弁えている。それでも目を逸らすのが一瞬遅れて、ズボンの裾が引き上げられて右膝の先端が包帯で覆われているところを見てしまって気まずい感情が腹の中を巡り回っているのだが。
「その怪我については聞かない方がいい、よね」
「知りたきゃ教えてやるよ。一つ、仕事でアホ程歩いて右脚に負担がかかりまくった。二つ、その後バチバチのバトルで義足を酷使しまくった代償。傷病休暇扱いで有休がゴッソリ持ってかれなかったのが救いさ」
テレビの音が無機質に響き渡る中でも絆創膏を剥がす音や包帯を巻き直す音が耳に入った。つい数分前こそ声がやや震えていたピーターも、すっかり観念した様子で一字一句が犯人の自白のような声音を帯びていた。
「だったら最初から言えば良かったのに」
「お前に言えるか? ……おい、これをゴミ箱に。それからタバコと灰皿を持ってこい」
「今タバコって必要?」
タバコという悪臭と肺を悪くするだけの代物がこの世の、それも手に届く場所に存在しているのが耐えられず、思わず振り返る。既にピーターは絆創膏と包帯の取り替えを終えており、右手にはそれまで傷口に巻かれていたものがぐしゃぐしゃに丸まって置かれていた。
「必要に決まっているだろ。吸わなきゃやってられねえんだ」
ゴミを捨てる事は構わないが、タバコとなると話は別だ。今日一番のため息をつきながらピーターの手からゴミを取り、近くのゴミ箱に捨てるとマントルピースに置かれたタバコと灰皿を無言で彼に渡した。そして感謝の言葉を聞くより先にその足で庭に通じる窓まで向かい、ガッと全開にする。受動喫煙で病気なんかになりたくない。
「さっきの話だけど」言い終えて、ピーターが火のついたタバコ咥えた瞬間に思わず眉間の皺が寄る。「最初から言ってくれたら、少なくとも僕のため息の数は今よりグッと減ってたと思うんだけど」
「それは困る」ピーターが口からタバコを離した。「あれを聞かないと用事を頼んだ気がしないからな」
もう我慢ならなかった。タバコが無ければまだ沸点ギリギリでいられたが、吐き気を催す邪悪でスモーキーな臭いを嗅ぎ取った瞬間ピーターの側にツカツカと寄ると、白い頭をそれなりの力ではたいてやった。
「痛っ」
バカ野郎の言葉のかわりに、今日これ以上ない程の大きなため息をついて窓のそばの床に胡坐をかく。庭の芝を揺らす新鮮な空気が心地よく、庭に向かって大きく深呼吸をしてようやく気持ちが落ち着いた。今回はこのくらいにしといてやる。
「ったく……まあとにかく、メアリにこんな無様なところを見られなくて良かった。そうしたら俺はお兄ちゃん失格だ……いや、既にそうかもしれんが」
「僕相手だと?」
「そうだな、生かしちゃおけねえ」
ピーターがタバコを僕に向けてきたので精一杯目を釣り上げると、冗談だと言わんばかりに手が引っ込められた。取り繕う必要のなくなったピーターを見るのは申し訳ない気持ちになると同時に、思いっきり褒め倒してくれた恩に報いたくもなってくる。なんだかんだで放っておけない相手だ。
「で、次は何をすればいい? 今日はもう予定を入れてないからこれから掃除でも料理でも何でもやるけど」
「何でもって言ったな?」
「できる範囲内で」
慌てて付け加えて再びその顔を睨みつける。せっかく僕が心からの善意を見せようと思ったのに、「何でも」と聞いた瞬間ピーターが悪戯っぽい、それでいて底知れない笑みを浮かべたのを見逃さなかった。先ほどのばつの悪そうな雰囲気の欠片もない姿には、思わずもう一発強めにはたいてやりたい衝動も湧いてくる。
「それじゃあもう少しこのテレビアニメに付き合ってくれ。ここからがまた面白いんだよ」
「はあ?」まだメアリのぬいぐるみの採寸の方がマシだった程しょうもない答えだった。「そんなに元気なら僕はもういらなくない?」
「何言ってるんだお前、ウサギは寂しいと死ぬんだよ」
「ピーターは逞しく単独行動する方の種族だと思うけどな」
その言葉にピーターの眉が微かに上がった。一瞬、悪い事でも言っただろうかと息を呑んだがそれ以上は何も起こらず、外から入ってくる微風がカーテンを揺らす中僕達は平和にテレビアニメを見始めた。
僕が見る限りのピーターは強くて頼りになる存在で、だからこそ一人で生きていけそうと思ったのは本心からだった。実際メアリが留守になり、僕が来るまで冷蔵庫以外は問題なく暮らせているように見えたから。しかし考えてみればピーターが一人暮らしをした時期なんて無く、昔は両親が、今は妹が一緒に住んでいる。盲点だった。それに怪我を、弱みを隠そうとしていたところを思い出すと、もしやという疑念が生まれてくる。
あのさ、とピーターへと顔を移す。もう少しだけ会話を続けようとして、すっかりテレビに夢中な姿を見てやっぱりいいやと首を振った。この疑問についてはそのうち話そう。きっとはぐらかされるだろうけど、真意が掴めないなら掴めないで良い。そこも含めてピーターは、僕の大切な存在の一人である事に変わりはないのだ。それでいいじゃないか。
(2026/5)
たまには弱ってる日だってあるピーターと、兄を騙る不審者に振り回されるのが満更でもない弟分ウォルターの話。
ピーターの真意が掴みづらいのは、弱みを隠したがる性格なのもあるよって話です。狙われる立場にあるうさぎは体調不良を隠す習性を持つと知り、思いついたネタでした。彼の場合はそこに「兄」という、弱さを見せられない立場も加わる。
そんな主軸に加えて年相応にピーターに甘えるウォルターとか、二人の雑なやり取りが見たいとか、野うさぎは単独行動する種族なんだとか、そんな思いをぶつけた結果闇鍋状態と化した次第です。
